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本物語

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第82号 2025.8.31

弟 の こ と

横舘 久宣

 春おそく,弟が逝った。
 3日前,末の弟と老人ホームの居室を訪ね,兄弟3人でこもごも語りあったばかりだった。ベッドに腰掛け,ときおり寝そべったりして雑談していたが,そのなかでちょろっと漏らした。 「おれはここ一週間ぐらいかな。死ぬとはこんな感じなのかなと思う」。 それにしては,何も言わないで逝ってしまった。会いに来た兄弟二人になにかメッセージらしき言葉を残してもよかったのではと思ってしまう。ベッドにふせっていても出身TVキー局の報道番組などはよく見ているようだった。ニュースを読む側の技術を含めた心構えや話すときの声出し,間合いなど,むずかしいことを,とつとつと話していた。伝える側として,視聴者にいかに分かってもらうか,そのことに一途に思いを込めているような言い方だったと思う。
 われわれ三人の連れ合いやその縁者の人たちからは,「兄弟三人, 仲がいいのね」と言われていた。三人とも定年になり時間が出来て以来,三人で食べたり,飲んだりする機会が増えたのはたしかだと思う。 だけどあまり深い話をした覚えはない。 そして, 年子だったこともあり,わたしは兄らしいことをしてやった記憶がない。逆に,わたしの就職や転職の際,心配をかけたと思っている。はたしてこの兄をどう思っていただろうか。晩春の早暁,要介護者用の暗い居室のベッドで,誰に看取られることなく一人しずかに82年の生涯を終えた。そのとき,どんな思いが脳裏にあったのか,あるいはなかったのか…。
 札幌の高校で放送部に入り,都内の大学の放送研究会を経て,東京のTVキー局にアナウンサー職で合格し,入社した。われわれ家族は,朝のゴルフ番組やニュースなどで彼の仕事ぶりを視聴し安心していた。アナウンサーとしてはレア・ケースだと思うが報道記者としての活動も経験した。ときわクラブ(国鉄記者クラブ)にしばらく詰めていた時期があって,丸の内の国鉄本社と道路ひとつ隔てた場所が勤務先だったわたしに時おり電話をよこした。「兄貴,食券がたまったけど要らない?」。クラブ詰めの記者にも国鉄は職員食堂の割引券をくれるらしかった。昼食時,記者クラブで彼からもらった食券をつかい国鉄本社地下の食堂で一杯40円のかけ蕎麦にありついた。80年代,中曽根政権の一時期,国会記者会館にも詰めていた。年末,首相が記者たちに,群馬県のブランドねぎをプレゼントした際,たくさんもらったからと言って,お裾分けしてくれたことがあった。
 会社の組合から民放労連執行部に出向した時期があった。任期を終えて,しばらくして苦笑いしながら言っていた。「もどったらスポーツ・アナのつもりでいたんだけど,スポーツはもう間に合っていますと言われた。ニュースでいくしかないみたい」。大学の放送研究会時代,訓練を兼ねて神宮球場で六大学野球の母校戦の実況に励んでいた。それもあってかスポーツ領域の情報にはわりと詳しかった。結局,報道分野のキャスターを務めたが,あるとき総選挙の報道特集を担当し,それが社内で好評だったとほっとしていた。
 彼の持論は「アナウンサーはジャーナリストなんだ」だった。ある時期から女性アナウンサーの人気が高まり,いわゆる“女子アナ”ブームになって,いまに至る。きらびやかな女性アナの露出で視聴率向上をねらうという考え方は彼の考え方と相容れない。タレント視を助長する女子アナ路線に批判的だった。たしかに夜の報道番組で女性キャスターが“夜会服”もどきで出ているのには違和感があった。そんな感じで,アナウンス職に対する,技術はもとより仕事観について彼なりの思い入れがあり,後輩アナウンサー連に言わせると,彼は厳しいとの評判だったようだ。系列地方局のアナウンサー研修会でも講師として若手アナウンサーをけっこう絞り上げたふうに聞く。
 岩手県に新しい系列局をつくる計画が立ち上がった際,彼は真っ先に赴任希望の手を挙げた。父親の転勤に従って,小学校は盛岡だったこともあり,幼友だちがいる暮らしやすい地方都市での勤務に憧れているようだった。新局立ち上げから数年間,編成畑や営業担当役員などを勤め上げたあと,横浜の自宅にもどり,職業人生にくぎりをつけた。東京からの疎開に始まり,以後は父親の転職や社内異動によるたび重なる引っ越しで小学校は3つ在籍。父親のサラリーマン人生を見ながら,自分は何か一つの職能を身につけ,それで生きたいと思っていたようだ。
 大相撲が始まり,米大リーグでは同郷の大谷が活躍しているし,パリ・オリンピックも目前だった。もう少し生きていればいろいろ楽しめたのに,と思う。でもそれを言ったら,きりがないか。最後まで,放送のあり方,アナウンス職の有り様にこだわったままだった。それで良しとすべきかもしれない。
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