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本物語

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第82号 2025.8.31

我家のルーツを探る旅 (二)

岡本 崇

     2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に見る我が先祖達
 源頼朝(1147~1199)が1180年、 伊豆で挙兵後、敗走して千葉県房総に来た時、手を差し伸べたのが千葉常胤(ちばつねたね 1118~1201)で、私の26代前の先祖。千葉常胤が源頼朝(みなもとのよりとも)をお迎えした千葉市中央区長洲の「君待橋」で、常胤の六男、東胤頼(とうたねより1155~1228 私の25代前の祖・東庄の初代)が「見えかくれ 八重の潮路を待つ橋や 渡りもあへず 帰る舟人」と詠んだ。
 千葉県市川市で千葉常胤と長男、千葉胤正と次男、相馬師常が300の兵を引き連れ頼朝を迎えた時、頼朝は常胤に向かって「父とも思うぞ」と喜んだという伝承もある。
 千葉氏は平氏だが源氏に味方をした。1185年、平家が滅亡し鎌倉武家政権樹立。1189年、義経は吉野郡下市町にある私の大学時代の学友の宅田家(つるべすし弥助)に居た頃、頼朝により奥州藤原氏滅びる。1192年、頼朝が征夷大将軍になる。
 1221年、高崎経済大学の恩師、難波田春夫先生の祖と私の祖が参戦した承久の乱に勝利。頼朝は1160年の13歳の時、伊豆国へ流刑され30歳頃、北条政子と結婚。
 1199年、頼朝52歳で急死。長男の頼家を支え政権運営を行ったのが13人衆。
北条時政(1138~1215)の長男が北条宗時(1180年死去)。次男が主人公の北条義時(1163~1224)。長女が北条政子(1157~1225)である。
     千葉常胤などが含まれない「13人衆」とは
 ①北条義時(ほうじょうよしとき)37歳で選ばる。②北条時政(ほうじょうときま
さ)頼朝の時代は無位無官だったが権力欲を出す。③比企能員(ひきよしかず)群馬
県の守護も。娘は源頼家の妻。北条氏と対立して滅亡。④梶原景時(かじわらかげと
き)頼朝に重用されていたので反感を買い8か月後に滅ぼされる。⑤三浦義澄(みう
らよしずみ)頼朝の信頼が厚かった73歳の長老で「梶原景時の変」後に死去。⑥安達盛長(あだちもりなが)頼朝の側近。群馬県の奉行人も。三浦義澄と同時期に死亡。
⑦和田義盛(わだよしもり)北条時政と親しかったが義時への恨みによる和田合戦で
滅びる。末裔が高崎市の和田城主(後の高崎城)となる。⑧足立遠元(あだちとおも
と)東京足立区出身。娘が北条義時の弟に嫁ぐ。⑨八田知家(はったともいえ)源頼家(みなもとのよりいえ)に対する謀反の疑いで常陸に流された頼朝の弟を殺害した。
➉中原親能(なかはらちかよし)源頼朝と入魂。1199年頼朝の娘が亡くなると出家。
⑪二階堂行政(にかいどうゆきまさ)頼朝と遠戚。父は藤原南家(五條市栄山寺が本拠地)の出。⑫大江広元(おおえひろもと)朝廷の官人だった。⑬三善康信(みよしやすのぶ)京都での実務経験や人脈を通じて活躍した。
 源頼家1182生,1204年22歳の時に暗殺される。源実朝1192生,1219年27歳の時に暗殺される。藤原頼経1218生、1256年に38歳で寂。 両親とも頼朝と繋がるが京都へ追放される。藤原頼嗣1239生、1256年17歳の時 京都で病死。宗尊親王1242生、1274年32歳寂。維康親王1264生、1326年62歳で寂。久明親王1276生、1328年52歳で寂。守邦親王1301生、後醍醐天皇に敗れ出家。1333年32歳で寂。1332年、後醍醐天皇は討幕計画が漏れ隠岐島へ流される。
 1333年,楠木正成・赤松則村・足利尊氏・新田義貞(上野国新田庄の御家人)達により討幕される。1185年から148年間続いた鎌倉幕府から、足利尊氏が京都に開いた室町幕府へ移行した。1336年には後醍醐天皇が五條市西吉野町賀名生へ移る。
「賀名生の里歴史民俗資料館」には、岡本崇家の家宝が寄託展示されている。
 岡本崇の父は、大東市の大東家から養子に来て岡本朝夫を名乗っていたが、大東家の家系図によると千葉常胤は父の25代前の先祖となる。父の祖父、東(とうの)浅右衛門朝昌(ともまさ)が長州征伐の時に、幕府に200両寄付した褒章で、東(とう)から大東(おおひがし)と改名。朝夫(ともお)の兄、昌治(まさはる)が南郷村村長の時、住道町、四条町と合併して大東市(だいとうし)が誕生。千葉常胤の6男が千葉県東庄町へ分家し東六郎太夫胤頼(たねより)と名乗る。その子息、東兵衛尉重胤(1247年寂)は、藤原定家に歌を学ぶ。その子の東中務尉胤行(1194~1273・妻は定家の孫)が、承久の乱の戦功により美濃(岐阜県郡上市大和町)を賜り、千葉県東庄町から移住して美濃東氏(篠脇城城主)初代を名乗る。その6代後の、東(とうの)上野之助常緑(つねより)は、1471年に宗祇に古今伝授(二条家断絶後、二条派の東常緑から古今和歌集の解釈を明健神社で連歌師宗祇へ伝える)を行う。宗祇は東常緑の弟の正宗龍統(しょうじゅうりゅうとう)から漢学も学んでいるが、龍統は木蛇寺(岐阜県大和町)・建仁寺(京都市)・南禅寺(京都市)の住職だった。(続く)
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