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本物語

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第83号 2025.11.30

音に惹かれて

野口 広鎮

「なぜ冬枯れの山へ, それも一人でゆくの」
 出かけに家人に言われた。理屈なぞはない,山へ登るのに高尚な理由が必要なのか,人は何をやるにつけ,理屈をつけたがり聞きたがる。そんなものなどなくてもいいだろう……頭と心を,空っぽにしたい時もあるのだから。
 家を出る。月のない夜空に星が光る。カーンカーンと警報音が耳を打つ。始発の電車がグオーと通り過ぎる。開いたばかりの踏み切りを,駆け足で渡る。やがて,無人の改札を抜ける。人もまばらな駅舎やプラットホームに,
「二番線に下りの電車が参ります,危険ですから黄色い線までお下がりください」
と,気持ちが感じられない録音のアナウンスが響く。
 早朝の車内には疎らに人が座る。走る電車は,ゴーゴーと音を立てているだろう。だが気にならない。聞こえているのに聞こえない耳になっている。数人の乗客は目を瞑っている。いや,寝込んでいるのかも知れない。やがて窓から陽が射し込んできた。電車が停まるたびに物音が増えて行く。ザワザワと人の声なのだが,何を言っているのか分からない,だから気にならない。電車は,ただただ,走っている,それは外の景色が動いているから認識できた。三度,乗り換えて目的地の山合の駅についた。すでに二時間半が過ぎていた。
 駅前のバス停でバスに乗る。車内を見れば自分一人だった。途中,中年の女性が乗ってきた。軽い会釈をして席に座り込む。いくつものバス停を通過する。女性は「お先に」と,頭を下げて降りて行った。礼儀の良さが,寒々としたバスの中を暖かくしていった。やがて終点に着いた。自分一人が降りる。運転手は,「気をつけて」と言う。
 歩き始める。畑の横の細い道を行く。道端に地蔵菩薩や二十三夜,また,十九夜に青(せい)面(めん)金剛,道祖神などの石碑が並んでいた。石碑に彫られた文字は,風化して読み取れない。石碑たちは口を開かない。だが,何かを伝えているようにも思え,手を合わせ,頭を下げた。一人で山へ登ることの不安な気持ちがそうさせたのかも。
 白壁の土蔵が建つ農家の縁側で,老夫婦がお茶を飲んでいた。私は軽く頭を下げる。二人は会釈を返した。「気をつけて行って下せい」そう小さく聞こえた。
やがて登山口に着いた。細い道を登る。背ほどに伸びた枯れた葦を手で除けながら進む。小川に出た。太い丸太が二本架かっていた。その橋を渡る。ザーザー,ポコポコ,ザーと川音が聞こえる。その音は山道を登るたびに遠くなった。
 歩く山道に風はない。だが,大木のはるか上部の枝葉は風に揺られている、風音がゴオーゴオーと鳴っている。その音は恐ろしくさえ感じられる。でも,足は交互に動き,目は先へ先へと道を見つめて行く。
 林を抜けると樹木は疎らになり,顔は強い風に晒された。思わずあごを引く。間断なく耳を鳴らし続ける木枯らし。歩を進める後方でピー,ピーと鳥が鳴く。振り向きながら,傍らの木々やその下の茂みに目を移す。見えない。ピー,ピーと,また鳴いた。ヒヨドリだろう……そのすぐ後に,鶯が鳴いた。
 ひと休み。腰を下ろす。座った草むらの切り株の年輪を数えてみた。その数は自分と同じほどだった。
「お前はその歳で,伐られてしまったのか。静かに生きてきたんだろうが……」
 口に出さずに,気持ちの中で呼びかけ,切り株の表面を手の平で優しく撫でた。
 大分登ってきた。心臓の鼓動がドキドキ高鳴る。ようやく頂上にあがった。誰もいなかった。まもなく,雨が落ちてきた。急ぎ坂道を下る。合羽からしずくが落ちる。足元の低い草木がズボンと触れ合いズズッ,ガサガサと音を立てる。水溜りに足が入り込む,ボッビシャ,ボッビシャと,音は足の運びにその都度応える。
 雨が止み薄日が射してきた。光は音も立てずに合羽の水をさらって行く。まもなく下山予定の小さな集落に着いた。ふもとの神社の鈴をゆする。ジャラン,ジャランとけだるそうに鈍く鳴る。すかさずパンパンと手を打ち,無事の下山を感謝する。

 集落から犬の遠吠や子供の甲高い声が聞こえる。また,鳥のさえずりを耳にする。
 最終バスが停留所を離れて行くのが見えた。計画時に,夏と冬のバス時間を間違えた。JRの駅まで歩くか,二時間か……。でも,誰にも迷惑はかけていない,一人歩きだから。時計は四時を指していた。歩けば必ず着く,そう言って歩を進める。靴音と両手に持つストックの突く音が,夕陽に紅く染められたアスファルトから,コツコト,コツコトと鳴り返す。落ち葉がカラカラと音を立てて舞った。まもなく寒あけの立春になる。さて,春の里山はどんな音を聞かせてくれるだろう…
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