本物語
第83号 2025.11.30
あれから十五年
齊藤 賢治
十五年前,いつものように朝7時には会社に行って,いの一番にお店の掃除をし,店の前両隣五軒の掃除も行う。それが終わって始業には工場の社員に挨拶に回る。一人一人に元気?頑張っているね,とか声を掛けて様子を伺いながら。その後,若干の事務処理をして,持病の薬が無くなってきたのでかかりつけの医院に行って薬を戴いてきた。午後,パソコンに向かい社員からの日報を見ては返事をしていると緩やかに地震が揺すってきた。その地震は間を置かず大きな揺れへと変化していった。棚からは本がバラバラ落ち,今まで感じたことない大きな揺れへと変わっていった。天からの声が聞こえるように「記録だ,記録だ」と誰かかが言っているように耳元に聞こえてくる。iPhoneを胸ポケットから取り出し周りを動画で撮り始めた。揺れは長く大きな地震へと変化していった。これは津波が来ると判断し,事務員の皆に「津波が来るから逃げなさい」と叫んだ。社員は普段より津波の時の行動についても心得ていた。事務員,店員そして工場の全員が高台へと十分余りで避難が完了した。
三時二十分,津波が岸壁に上がってきた。私は,岸壁を越えても防潮堤を越えることはないと信じ切っていた。しかし,思いもむなしく津波は頼みの綱を簡単に乗り越え路面に流れている。それを見てチリ地震津波を思い出した。その瞬間思わず悲鳴を上げてしまった。近隣の建物をいとも安く流し去った。第一波が満潮位になるまで十分,数十年或いは百年以上も労苦を積み重ねて作った財産が一瞬にして失われてしまった。近所の老人に「また流されたね」というと「財産も思い出も流されました」という。海岸に近い地域の住居や店舗工場などがほとんど流されてしまった。
翌朝から全国各地から夜どうし車を走らせてきた消防士や自衛隊の皆さんが救助活動に入った。四月になると市は地元建設業の皆様を招集し散乱している残材(がれき)の撤去作業や道路の修復に入った。私たち個人や事業者には何の達しもなかったが,自宅を流された方々の多くは避難所(体育館など)に避難しているようだった。聞くと,寒いし,プライバシーが無い,食事も満足にできない,水道が止まっているためトイレが使えないなど不自由な生活を強いられているという。工場や店舗の経営者の中には,前の年十一月に工場を新設し操業を開始したばかりの経営者もいて,再建は無理だと落胆していたかと思えば,敷地を借りて仮店舗を始める人や,空き店舗を改造し仮店舗を作る人もいたし,流された跡地に新店舗を建設する鮨屋さんも現れた。まだ時も経っていないのに怖くないのだろうかと思った。猛反対する人もいたと聞いているが,その年十一月にガレキの中に立派に堂々オープンしたのだ。そのオープンの姿を見て,経営者の鏡だしこれに続くものがあると思った。私的には早く同じ場所で店舗を改装して早々に営業したいと,いの一番に思った。しかし,町全体が地盤沈下のため海水が町を埋め尽くす状況になっていたし,市の復興計画はいつになるか全く分からない。先ずは,仮設の店舗を設置しようということで,高台に近い国道四五線沿いに空きコンビニ,空き店舗があったので,早速借用したが,足元を見られたのかやたら高い単価で契約することになった。ほか,釜石のスーパーに仮設のテナント,高田には仮設店舗を設けて営業を始めた。
十二月,町には仮設の飲食店街や商店街も設けられ,店舗が少なくなってしまった町は一気に賑わった。飲食店は数十店舗にも及んだが席数が少なく見ず知らずの皆様が肩を寄せ合いながら談笑し楽しく飲食したのを覚えている。励ましのため有名歌手や芸能人も多く慰問に来られ,がれきの町の一角に明るい歌声が響くことが多かった。そして,市の復興計画が示されたのは二年後くらいだったと思う。土地の収用やら土地のかさ上げ,河川の拡幅と作業は広範にわたった。町を形成できるまでの時間は六年以上も要したが,二〇一七年四月,国の支援を頂きながら町が出来上がった。古い町は,複数の店舗を車で渡り歩きながら買いものをする必要があったが,新しい町はコンパクトシティということで一か所で用が足せるように便利になった。業種があまり多くはなく不便さもあったが,無理な要求でなければ概ね満足できる街になった。新しい町の名称は「キャッセン大船渡」,来てくださいという意味だ。スーパー,ホームセンター,アパレル飲食店数点,花屋,菓子屋,ホテルなどなど多数のお店で賑わった。その後も,その中や周辺には施設が出来てきており,町としての機能が充実してきた。今後の大きな課題は,人口減少や高齢化にどう対応できるかである。大型事業所は問題が少ないようだが,後継者問題,営業不振問題などで既に閉店したお店や経営者の入れ替わりがあるなど多難な商店街になっている。今後は,時代背景に合った業態の推進ができるかどうか,経営者の力量が問われるところと思う。大船渡の発展のため若き経営者に期待をしている。
三時二十分,津波が岸壁に上がってきた。私は,岸壁を越えても防潮堤を越えることはないと信じ切っていた。しかし,思いもむなしく津波は頼みの綱を簡単に乗り越え路面に流れている。それを見てチリ地震津波を思い出した。その瞬間思わず悲鳴を上げてしまった。近隣の建物をいとも安く流し去った。第一波が満潮位になるまで十分,数十年或いは百年以上も労苦を積み重ねて作った財産が一瞬にして失われてしまった。近所の老人に「また流されたね」というと「財産も思い出も流されました」という。海岸に近い地域の住居や店舗工場などがほとんど流されてしまった。
翌朝から全国各地から夜どうし車を走らせてきた消防士や自衛隊の皆さんが救助活動に入った。四月になると市は地元建設業の皆様を招集し散乱している残材(がれき)の撤去作業や道路の修復に入った。私たち個人や事業者には何の達しもなかったが,自宅を流された方々の多くは避難所(体育館など)に避難しているようだった。聞くと,寒いし,プライバシーが無い,食事も満足にできない,水道が止まっているためトイレが使えないなど不自由な生活を強いられているという。工場や店舗の経営者の中には,前の年十一月に工場を新設し操業を開始したばかりの経営者もいて,再建は無理だと落胆していたかと思えば,敷地を借りて仮店舗を始める人や,空き店舗を改造し仮店舗を作る人もいたし,流された跡地に新店舗を建設する鮨屋さんも現れた。まだ時も経っていないのに怖くないのだろうかと思った。猛反対する人もいたと聞いているが,その年十一月にガレキの中に立派に堂々オープンしたのだ。そのオープンの姿を見て,経営者の鏡だしこれに続くものがあると思った。私的には早く同じ場所で店舗を改装して早々に営業したいと,いの一番に思った。しかし,町全体が地盤沈下のため海水が町を埋め尽くす状況になっていたし,市の復興計画はいつになるか全く分からない。先ずは,仮設の店舗を設置しようということで,高台に近い国道四五線沿いに空きコンビニ,空き店舗があったので,早速借用したが,足元を見られたのかやたら高い単価で契約することになった。ほか,釜石のスーパーに仮設のテナント,高田には仮設店舗を設けて営業を始めた。
十二月,町には仮設の飲食店街や商店街も設けられ,店舗が少なくなってしまった町は一気に賑わった。飲食店は数十店舗にも及んだが席数が少なく見ず知らずの皆様が肩を寄せ合いながら談笑し楽しく飲食したのを覚えている。励ましのため有名歌手や芸能人も多く慰問に来られ,がれきの町の一角に明るい歌声が響くことが多かった。そして,市の復興計画が示されたのは二年後くらいだったと思う。土地の収用やら土地のかさ上げ,河川の拡幅と作業は広範にわたった。町を形成できるまでの時間は六年以上も要したが,二〇一七年四月,国の支援を頂きながら町が出来上がった。古い町は,複数の店舗を車で渡り歩きながら買いものをする必要があったが,新しい町はコンパクトシティということで一か所で用が足せるように便利になった。業種があまり多くはなく不便さもあったが,無理な要求でなければ概ね満足できる街になった。新しい町の名称は「キャッセン大船渡」,来てくださいという意味だ。スーパー,ホームセンター,アパレル飲食店数点,花屋,菓子屋,ホテルなどなど多数のお店で賑わった。その後も,その中や周辺には施設が出来てきており,町としての機能が充実してきた。今後の大きな課題は,人口減少や高齢化にどう対応できるかである。大型事業所は問題が少ないようだが,後継者問題,営業不振問題などで既に閉店したお店や経営者の入れ替わりがあるなど多難な商店街になっている。今後は,時代背景に合った業態の推進ができるかどうか,経営者の力量が問われるところと思う。大船渡の発展のため若き経営者に期待をしている。