本物語
第83号 2025.11.30
葬 儀 写 真
大木 幸夫
私の部屋にある自分机の前の棚に額に入った葬儀写真が置かれています。その写真は空手の道衣姿の少し笑みを浮かべた20代頃の友人・岡部の写真で,私の学生時代新宿のK学院大学二部建築学科に通った空手部の卒業写真です。この写真を置いてから50年が経ちました。随分と時が流れました。何故こんなに永い間飾ってあるのか,置いてあるのかと言いますと,以下に記すようなことがあったからだと思います。
岡部は会社の寮でガス中毒で死んでしまいました。酒好きの彼が冬になるとガスストーブの上に目刺しを焼き,それを肴に酒を飲む習慣がありました。そのストーブのバーナーの目が目刺しの焼けた汁の永年の目詰りで酸欠状態になったのに気付かず,酔って寝てしまい,そのまま永眠でした。28才,独身でした。彼の死が発見されたのは亡くなってから何日か経ってからでした。彼の田舎は大分県大分市なので葬儀は空手部葬として東京で行い,4年生の時彼が主将で私は副将をやっていたので同級生代表となり,遺骨と香典と写真を空手部の4人で届けることになりました。
彼の実家は旧家の名残りを感じるものでした。彼はその家の末っ子で上は女ばかりの男の子は彼一人だったので,お父さんは落胆していました。お父さんと酒を飲みながら,彼が飲むと父親が文武両道で一目置いていて,親父を越えるんだとお父さんがやっていない空手部に入ったことなど,これ迄の彼の東京での生き様を語らせて貰いました。やはり厳格そうなお父さんでした。帰る時に香典はお世話になった空手部で使って下さいと,葬儀写真と一緒に手渡されました。何故か葬儀写真は同じ物が2枚有ったので1枚は私が持ち帰ることになりました。
帰途,こんなことがありました。一緒に行った4人は皆東京に帰るので博多の中洲で一杯やることになり,フグ刺しや,温燗で大いに飲みあかしていると,ちょっと恐いヤクザ風の男が私達に声を掛けてきました。「お宅さん等は東京の方ですか」と。どうなることかと一瞬緊張が走りました。カウンターで酔って大声でしゃべっていましたから,その上,私達はまだ空手の練習はやっていたので坊主頭で,黒の三ツ揃えを着ていたので,変な奴等だと思われてしまいました。私達は友人の葬儀を大分でやって来た帰りだと話しますと,そのヤクザ風の男は帰って行きました。それからメンバーの一人から「彼が毎晩新宿の飲み屋に出掛け,相当借金が有るらしいので,空手部で預かった香典を返済に使わしてくれないか」と申し入れがあり,友人の名誉の為に後日返済廻りをすることになりました。
東京に戻りオデン屋に行って岡部が死んだことを話しますと女将さんがビックリしてしまいました。焼鳥屋の大将にも残念がられ,最後にバー・クラブハイシに行って岡部がよく呼んでいた女の娘(こ)何人かを指名して彼が亡くなったことを伝えますと,その中の一人の娘が大声を上げて泣き出してしまいました。これで彼も浮かばれたなと感じました。
彼の飲み屋通いの根底にはお父さんとの確執が相当影響していたと思います。武道合わせて何十段,又,地域の有力者としての父には,彼は兄弟姉妹の男一人で末っ子として厳しく育てられてきました。そのせいか,彼はお父さんを越えたいと思って反対を押し切って東京に出て来たと言っておりましたが,現実は厳しかったのではなかったかと思います。しかし仕事は設備会社の現場監督者として正月も休みなく貢献していました。私も大学を卒業した時,それまで勤めていた都職員を辞めて,彼の紹介で建築会社の現場監督になりました。そしてよく二人で新宿で飲みました。私は府中市に住んでおりますので京王線の終電で帰る時間まで飲むことが殆どでした。 が、或る時彼の寮が有る幡ヶ谷で飲みました。いつもはそのまま「じゃあー又」と言って別れるのですが,その日に限って彼は駅迄付いて来ました。駅前に着き,彼と別れて私はホームを渡って返対側に出ますと彼はまだ別れた所に立っていました。何か別れを嫌がっているように感じました。電車が来たので,二人とも大きな声で「じゃあー又」と叫びました。それが彼との最後の言葉となるとは思いもしませんでした。28才での別れでした。
持って帰って来た写真は額に入れて棚に置きました。最初の頃はそれを見ると涙が出ましたが,しばらく経ってからは自分の人生がうまく行ってない時は裏面にしたり,捨ててしまおうかと思ったりしました。今,若かった彼の写真を見るとあの頃の二人の無鉄砲さが想い出させてくれます。50年が経ってしまった今,私は小さな建築会社をやっています。今,会社は何かと大変な時期ですが,経営し続けられているのは目に見えない何かが応援してくれているからではないか,この写真が有ったからこそかも,と思っています。
岡部は会社の寮でガス中毒で死んでしまいました。酒好きの彼が冬になるとガスストーブの上に目刺しを焼き,それを肴に酒を飲む習慣がありました。そのストーブのバーナーの目が目刺しの焼けた汁の永年の目詰りで酸欠状態になったのに気付かず,酔って寝てしまい,そのまま永眠でした。28才,独身でした。彼の死が発見されたのは亡くなってから何日か経ってからでした。彼の田舎は大分県大分市なので葬儀は空手部葬として東京で行い,4年生の時彼が主将で私は副将をやっていたので同級生代表となり,遺骨と香典と写真を空手部の4人で届けることになりました。
彼の実家は旧家の名残りを感じるものでした。彼はその家の末っ子で上は女ばかりの男の子は彼一人だったので,お父さんは落胆していました。お父さんと酒を飲みながら,彼が飲むと父親が文武両道で一目置いていて,親父を越えるんだとお父さんがやっていない空手部に入ったことなど,これ迄の彼の東京での生き様を語らせて貰いました。やはり厳格そうなお父さんでした。帰る時に香典はお世話になった空手部で使って下さいと,葬儀写真と一緒に手渡されました。何故か葬儀写真は同じ物が2枚有ったので1枚は私が持ち帰ることになりました。
帰途,こんなことがありました。一緒に行った4人は皆東京に帰るので博多の中洲で一杯やることになり,フグ刺しや,温燗で大いに飲みあかしていると,ちょっと恐いヤクザ風の男が私達に声を掛けてきました。「お宅さん等は東京の方ですか」と。どうなることかと一瞬緊張が走りました。カウンターで酔って大声でしゃべっていましたから,その上,私達はまだ空手の練習はやっていたので坊主頭で,黒の三ツ揃えを着ていたので,変な奴等だと思われてしまいました。私達は友人の葬儀を大分でやって来た帰りだと話しますと,そのヤクザ風の男は帰って行きました。それからメンバーの一人から「彼が毎晩新宿の飲み屋に出掛け,相当借金が有るらしいので,空手部で預かった香典を返済に使わしてくれないか」と申し入れがあり,友人の名誉の為に後日返済廻りをすることになりました。
東京に戻りオデン屋に行って岡部が死んだことを話しますと女将さんがビックリしてしまいました。焼鳥屋の大将にも残念がられ,最後にバー・クラブハイシに行って岡部がよく呼んでいた女の娘(こ)何人かを指名して彼が亡くなったことを伝えますと,その中の一人の娘が大声を上げて泣き出してしまいました。これで彼も浮かばれたなと感じました。
彼の飲み屋通いの根底にはお父さんとの確執が相当影響していたと思います。武道合わせて何十段,又,地域の有力者としての父には,彼は兄弟姉妹の男一人で末っ子として厳しく育てられてきました。そのせいか,彼はお父さんを越えたいと思って反対を押し切って東京に出て来たと言っておりましたが,現実は厳しかったのではなかったかと思います。しかし仕事は設備会社の現場監督者として正月も休みなく貢献していました。私も大学を卒業した時,それまで勤めていた都職員を辞めて,彼の紹介で建築会社の現場監督になりました。そしてよく二人で新宿で飲みました。私は府中市に住んでおりますので京王線の終電で帰る時間まで飲むことが殆どでした。 が、或る時彼の寮が有る幡ヶ谷で飲みました。いつもはそのまま「じゃあー又」と言って別れるのですが,その日に限って彼は駅迄付いて来ました。駅前に着き,彼と別れて私はホームを渡って返対側に出ますと彼はまだ別れた所に立っていました。何か別れを嫌がっているように感じました。電車が来たので,二人とも大きな声で「じゃあー又」と叫びました。それが彼との最後の言葉となるとは思いもしませんでした。28才での別れでした。
持って帰って来た写真は額に入れて棚に置きました。最初の頃はそれを見ると涙が出ましたが,しばらく経ってからは自分の人生がうまく行ってない時は裏面にしたり,捨ててしまおうかと思ったりしました。今,若かった彼の写真を見るとあの頃の二人の無鉄砲さが想い出させてくれます。50年が経ってしまった今,私は小さな建築会社をやっています。今,会社は何かと大変な時期ですが,経営し続けられているのは目に見えない何かが応援してくれているからではないか,この写真が有ったからこそかも,と思っています。