本物語
第83号 2025.11.30
我家のルーツを探る旅 (三)
岡本 崇
明建神社(みょうけんじんじゃ・岐阜県郡上市大和町)には千葉神社や秩父神社と同様に,北斗七星を神格化した妙見菩薩が祀られているが,千葉氏妙見信仰の発祥の地は、高崎市引間町の妙見社(染谷川の戦いで平良文の危機を救った所)。 近くの蒼海(おおみ)城跡(前橋市)は,千葉常胤の屋敷跡だった。私が学生時代,高崎市に住んでいた時には全く知らなかったのが残念。承久の乱は1221年後鳥羽上皇が鎌倉幕府北条義時討伐の兵をあげて破れた乱。難波田城(埼玉県富士見市)は,承久の乱で戦死した金子小太郎高範(千葉一族村山党)の子孫が戦功として与えられた地で,難波田氏(高崎経済大学のゼミの恩師、難波田春夫先生の祖)を名乗る。
千葉氏(千葉市)⇒東氏(とうし・千葉県東庄町)⇒美濃東氏(岐阜県郡上市大和町)⇒大東家(大東市)⇒岡本家(五條市西吉野町)へと変遷した我が祖の歴史の中にも承久の乱があった。明智光秀の家臣,東行澄(私の14代前の祖)の子が建てた大東市の勝福寺(東氏の持仏堂)には,先祖供養の名を書いた羅漢像が沢山あるが,そこに小田原藩からの施主もあるのは鎌倉幕府時代に活躍したご縁であろう。
東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆(2012年奈良国立博物館展)
1180年、平清盛の命で平重衡(しげひら)達による南都焼き討ちで被害を受けた東大寺を後白河法皇の支援の下に重源(ちょうげん)が復興に努めたが,1192年法皇が崩ずると,その後は源頼朝が大事業を支え,1195年の落慶法要にも列席した。隆光(綱吉の母桂昌院が帰依した僧)は徳川綱吉(館林徳川家初代)の信を得て活躍。1709年,綱吉の死後,東京音羽護国寺(高崎市大聖護国寺亮賢住職が綱吉に命じられて開山)から奈良市の超昇寺(大極殿の北側・高の原駅近くに超昇寺橋がある)へ帰国して1724年寂。彼も東大寺大仏殿の再建等奈良の寺社復興に貢献。大仏殿は1567年に三好軍に焼かれ年に仮仏堂は暴風で倒壊。現存する大仏殿は1709年に完成した。
天誅組の伴林光平記録係は生駒で捕まり奈良奉行所へ籠に乗せられ移送される道中「闇夜行く星の光よおのれだにせめては照らせ武士(もののふ)の道」と詠んでいるが,超昇寺の前では「八千くさの 佐紀野の秋は 昔にて 御陵(みはか)の松に 時雨ふるなり」とわびしい御陵に,平城一族の悲運とみずからを重ね詠んでいる。天誅組主将,中山忠光卿が西吉野の我が岡本家で泊まったと聞くので感慨深い。
天誅組主将中山忠光卿が五條市西吉野町西新子の岡本家に宿泊した時には,シバ小屋で馬を預かり,沢山の兵糧米を差し出して協力したので,忠光卿から賊徒(徳川)を退治したら褒章を取らせるという意味の証文を頂いていた。この証書や錦の御旗や,経営していた鉱山の鉱石見本等,我家の宝物を「賀名生の里歴史民俗資料館」に寄託展示してある。2009年にはこのような話を「白銀岳と天誅組の変」と題して私が学んでいた古文書教室のある,京都府立山城資料館で講演をさせて頂いた。
奈良県五條市にある特定非営利活動法人「維新の魁・天誅組」が以前に募集した「天誅組俳句」に私が応募して入賞した俳句をご紹介すると,第1回「証文に 忠光の自著 霧の岳」。第2回「虎太郎の 血染めの襦袢 初閻魔」。第4回「山麓を 埋め尽くしたる 柿紅葉」。血染めの肌襦袢(御所市指定有形文化財)は天誅組総裁 吉村虎太郎が重坂村の西尾家に残したものだが,この西尾家は我が岡本家の親戚である。西吉野は柿の産地だが,第4回の句は,「奈良県・西新子(五條市西吉野町)」として,「岸本信夫スケッチ紀行」に掲載された我家と銀峯山の絵を見て詠んだ俳句。
舟久保藍著「実録 天誅組の変」淡交社発行では,井澤宜庵(天誅組軍医)の妻の実家として奥谷村の岡田家(岡本家3代目徳兵衛の2男が分家した家)も登場する。
大学の恩師、樋口清之先生の祖父も天誅組に参加して高取城攻撃に敗れ、西郷隆盛に助けられ鹿児島に敗走。そこで宮部という名前を樋口と変更したと,うめぼし博士の「逆・日本史」祥伝社発行 に書かれているから歴史を知れば知るほど面白い。
2004年11月に学友達7人が西吉野へ来た。西吉野町黒淵(映画「萌の朱雀」では近くの黒淵の吊り橋が登場)にあった旅館に1泊した翌日,吉野・吉田・木村の3名が西吉野町西新子の岡本家に立ち寄り柿狩りを楽しんだ。その中に居た木村清生(俳号:青々)君は山口県の出身で私の俳句の師匠だったので,私は青岳(白銀岳=銀峯山)を名乗っていた。そのようなご縁があって,私は2008年11月に中山忠光卿が暗殺された山口県を訪問し木村君と1泊2日の思い出深い旅をした。その時に,木村君が作った「天誅組忠光卿の足跡を辿りて友と馬関に酌めり」と云いう句が朝日新聞に入選して山口版で報じられた。私は,川棚温泉「せきや」に宿泊した夜を思い出して,「霧の夜や 忠光卿を 語り酌む」青岳 と詠んだ。(続く)
千葉氏(千葉市)⇒東氏(とうし・千葉県東庄町)⇒美濃東氏(岐阜県郡上市大和町)⇒大東家(大東市)⇒岡本家(五條市西吉野町)へと変遷した我が祖の歴史の中にも承久の乱があった。明智光秀の家臣,東行澄(私の14代前の祖)の子が建てた大東市の勝福寺(東氏の持仏堂)には,先祖供養の名を書いた羅漢像が沢山あるが,そこに小田原藩からの施主もあるのは鎌倉幕府時代に活躍したご縁であろう。
東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆(2012年奈良国立博物館展)
1180年、平清盛の命で平重衡(しげひら)達による南都焼き討ちで被害を受けた東大寺を後白河法皇の支援の下に重源(ちょうげん)が復興に努めたが,1192年法皇が崩ずると,その後は源頼朝が大事業を支え,1195年の落慶法要にも列席した。隆光(綱吉の母桂昌院が帰依した僧)は徳川綱吉(館林徳川家初代)の信を得て活躍。1709年,綱吉の死後,東京音羽護国寺(高崎市大聖護国寺亮賢住職が綱吉に命じられて開山)から奈良市の超昇寺(大極殿の北側・高の原駅近くに超昇寺橋がある)へ帰国して1724年寂。彼も東大寺大仏殿の再建等奈良の寺社復興に貢献。大仏殿は1567年に三好軍に焼かれ年に仮仏堂は暴風で倒壊。現存する大仏殿は1709年に完成した。
天誅組の伴林光平記録係は生駒で捕まり奈良奉行所へ籠に乗せられ移送される道中「闇夜行く星の光よおのれだにせめては照らせ武士(もののふ)の道」と詠んでいるが,超昇寺の前では「八千くさの 佐紀野の秋は 昔にて 御陵(みはか)の松に 時雨ふるなり」とわびしい御陵に,平城一族の悲運とみずからを重ね詠んでいる。天誅組主将,中山忠光卿が西吉野の我が岡本家で泊まったと聞くので感慨深い。
天誅組主将中山忠光卿が五條市西吉野町西新子の岡本家に宿泊した時には,シバ小屋で馬を預かり,沢山の兵糧米を差し出して協力したので,忠光卿から賊徒(徳川)を退治したら褒章を取らせるという意味の証文を頂いていた。この証書や錦の御旗や,経営していた鉱山の鉱石見本等,我家の宝物を「賀名生の里歴史民俗資料館」に寄託展示してある。2009年にはこのような話を「白銀岳と天誅組の変」と題して私が学んでいた古文書教室のある,京都府立山城資料館で講演をさせて頂いた。
奈良県五條市にある特定非営利活動法人「維新の魁・天誅組」が以前に募集した「天誅組俳句」に私が応募して入賞した俳句をご紹介すると,第1回「証文に 忠光の自著 霧の岳」。第2回「虎太郎の 血染めの襦袢 初閻魔」。第4回「山麓を 埋め尽くしたる 柿紅葉」。血染めの肌襦袢(御所市指定有形文化財)は天誅組総裁 吉村虎太郎が重坂村の西尾家に残したものだが,この西尾家は我が岡本家の親戚である。西吉野は柿の産地だが,第4回の句は,「奈良県・西新子(五條市西吉野町)」として,「岸本信夫スケッチ紀行」に掲載された我家と銀峯山の絵を見て詠んだ俳句。
舟久保藍著「実録 天誅組の変」淡交社発行では,井澤宜庵(天誅組軍医)の妻の実家として奥谷村の岡田家(岡本家3代目徳兵衛の2男が分家した家)も登場する。
大学の恩師、樋口清之先生の祖父も天誅組に参加して高取城攻撃に敗れ、西郷隆盛に助けられ鹿児島に敗走。そこで宮部という名前を樋口と変更したと,うめぼし博士の「逆・日本史」祥伝社発行 に書かれているから歴史を知れば知るほど面白い。
2004年11月に学友達7人が西吉野へ来た。西吉野町黒淵(映画「萌の朱雀」では近くの黒淵の吊り橋が登場)にあった旅館に1泊した翌日,吉野・吉田・木村の3名が西吉野町西新子の岡本家に立ち寄り柿狩りを楽しんだ。その中に居た木村清生(俳号:青々)君は山口県の出身で私の俳句の師匠だったので,私は青岳(白銀岳=銀峯山)を名乗っていた。そのようなご縁があって,私は2008年11月に中山忠光卿が暗殺された山口県を訪問し木村君と1泊2日の思い出深い旅をした。その時に,木村君が作った「天誅組忠光卿の足跡を辿りて友と馬関に酌めり」と云いう句が朝日新聞に入選して山口版で報じられた。私は,川棚温泉「せきや」に宿泊した夜を思い出して,「霧の夜や 忠光卿を 語り酌む」青岳 と詠んだ。(続く)