本物語
第83号 2025.11.30
宮沢賢治と斎藤宗次郎
小西 忠人
花巻市内には賢治ゆかりの地が多く,聞けば30基余りの案内板があるという。「雨ニモマケズ」詩碑や賢治の生家,花巻農学校跡と,花巻市役所前の十字路沿いにある斎藤宗次郎(1877~1968)の「求康堂」跡の碑もその一つ。その宗次郎のことになるが,若くして内村鑑三の思想に傾倒し,91年の生涯をキリスト教徒として貫き,そしてまた賢治との交流を深めた人物の一人としても語られている。と言う私は,ソウジロウとはいかなる人物か? となると,宗次郎周辺資料によればその生き方が厳格で達識がにじみ,写真からは風貌全体から燃え上がる気迫というものが伝わった。
それに加えて几帳面な性分が,日記を付けなければその日が沈まないと言うほど,とにかく付けた。それがなんと21歳から亡くなる1カ月前の昭和42年12月までの約70年間。83歳になって今度は,一人のキリスト教徒としての自身の来し方を残す―として,これまで付け続けた膨大な量の日記,それ以外にもこと細かく付けた“備忘録”などを基に亡くなる直前までペンを握ったのが「二荊自叙伝」だったという。
その自叙伝。上下巻(昭和17年3月25日・同年6月28日発行,岩波書店)を花巻図書館で目にしたが,賢治の話が頻繁に出てくる。例えばこうだ。大正12年9月12日(水)。「農学校を訪うて宮沢賢治先生に会うた。氏は予を歓待して呉れた。更に蓄音機によってピアノの数曲を予に供したのであった」と謝しながら,「此処は氏の如き思想の人,芸術の人,信仰の人の居として適当である。予は閉談時余にして数枚のレコードを貸与されて再び自転車にて走り去った」とまたの日を楽しんでいる。そのころの宗次郎は教職の道を絶たれ新聞取次業の身,賢治に会った3日後の15日には「今日の新聞到着は午前1時12分岩手日報300部、岩手毎日280、午前3時45分河北新報500、午前10時50分大阪朝日200、午後2時25分読売25」などの各紙に「此の通り不定の到着であるから取り扱うも尚一段の骨折りであった」と漏らす。
宗次郎は和賀群笹間村(現花巻市笹間)に生まれ,岩手県尋常師範学校を卒業後,花巻市内の教師として小学校の教壇に立つ。が,時代はまさに日露戦争勃発寸前。中央では内村鑑三が堺利彦や幸徳秋水らと反戦運動(非戦論)を盛んに展開する中,宗次郎自身も非戦の決意を固め,公然と「納税も、兵役も」拒否を主張する一方で,積極的にキリスト教の教えを説く―。これが当時の群視学(教育指導官)からキケンナシソウカ,キケンジンブツとして厳重注意され,結局,退職を命じられ,5年間の教育現場から去る―という“花巻非戦論事件”としてのその前歴半生がこう刻まれる。
で,無職になった宗次郎が師内村の「君の適職は本屋」なる助言を忠実に守ったのが書籍取次業。店名の「求康堂」は聖書マタイ伝の「汝ら先(まず)神の国(全き平康)とその正しきとを求めよ」の精神から採っている(二荊自叙伝より)。その4年後には新聞取次業に乗り出し,それが宗次郎の本業となって,そこで底知れぬ世界観に満ちた青年,「賢治先生」に出会って親交を結んでいく―。ここでちょっと横道に。以前の宗次郎を知っていた誰彼が、「ヤソハゲアタマ」とか「ヤソハリツケ」とさんざんはやし立てたものが,誠に真剣で謙虚に配達している宗次郎に,いつの間にか「名物を買うなら花巻おこし、新聞を買うなら斎藤センセイ」―。随分な,変わりようだ。
こうして市民の信頼と人望を集めた宗次郎を,宗教学者山折哲雄氏が「デクノボーになりたい『私の宮沢賢治』、小学館」で,「―配達の時には、必ずポケットの片一方にあめ玉をたくさん入れ、もう一方には小銭を入れていた。子供たちに会うと、そのあめ玉を与える。病気の人がいると病床まで訪れて慰めの言葉をかけ、いくばくかの喜捨を置いて再び配達の仕事を続ける―」とある。同氏は,平成18年6月1日の岩手大学 開学記念講演会で「宮沢賢治と斎藤宗次郎」-『雨ニモマケズ』物語―と題しては「斎藤宗次郎が『デクノボー』なのかどうか、『雨ニモマケズ』の主人公のモデルなのかどうかの問題はあまり簡単に取り扱いたくはないと」と述べ,「問題の中心は賢治と宗次郎を結びつけるキーとなる問題」としている。それを付記しておきたい。
ともあれ,50余年暮らした花巻を離れ,住まいを東京に移したのが大正15年秋。宗次郎が「謙虚天真の光彩を放つ」と表現したその賢治が7年後,37歳の若さで没し,宮沢家を見舞ったのちの追憶には「農民芸術概論の序文の批評を乞われた。賢治先生の朗読する一句一句を傾聴し不肖ながら誠実の同意を表した。現代に対しての鋭利なる達観者宮沢賢治の構想としては一々首肯すべきものを感じた」(宮沢賢治研究資料集成第18巻、日本図書センター)とたたえることで,賢治から「休んでおでえんせ」と声を掛けられるままに,あれやこれやと話が弾んだ過ぎし日の数々が,宗次郎のこよない誇りとなってまぶたに浮かんでいった―。そんな気がしてならない。
来年は賢治生誕130周年を迎え,そこで宗次郎サンを語る機会にもなればと思う。
それに加えて几帳面な性分が,日記を付けなければその日が沈まないと言うほど,とにかく付けた。それがなんと21歳から亡くなる1カ月前の昭和42年12月までの約70年間。83歳になって今度は,一人のキリスト教徒としての自身の来し方を残す―として,これまで付け続けた膨大な量の日記,それ以外にもこと細かく付けた“備忘録”などを基に亡くなる直前までペンを握ったのが「二荊自叙伝」だったという。
その自叙伝。上下巻(昭和17年3月25日・同年6月28日発行,岩波書店)を花巻図書館で目にしたが,賢治の話が頻繁に出てくる。例えばこうだ。大正12年9月12日(水)。「農学校を訪うて宮沢賢治先生に会うた。氏は予を歓待して呉れた。更に蓄音機によってピアノの数曲を予に供したのであった」と謝しながら,「此処は氏の如き思想の人,芸術の人,信仰の人の居として適当である。予は閉談時余にして数枚のレコードを貸与されて再び自転車にて走り去った」とまたの日を楽しんでいる。そのころの宗次郎は教職の道を絶たれ新聞取次業の身,賢治に会った3日後の15日には「今日の新聞到着は午前1時12分岩手日報300部、岩手毎日280、午前3時45分河北新報500、午前10時50分大阪朝日200、午後2時25分読売25」などの各紙に「此の通り不定の到着であるから取り扱うも尚一段の骨折りであった」と漏らす。
宗次郎は和賀群笹間村(現花巻市笹間)に生まれ,岩手県尋常師範学校を卒業後,花巻市内の教師として小学校の教壇に立つ。が,時代はまさに日露戦争勃発寸前。中央では内村鑑三が堺利彦や幸徳秋水らと反戦運動(非戦論)を盛んに展開する中,宗次郎自身も非戦の決意を固め,公然と「納税も、兵役も」拒否を主張する一方で,積極的にキリスト教の教えを説く―。これが当時の群視学(教育指導官)からキケンナシソウカ,キケンジンブツとして厳重注意され,結局,退職を命じられ,5年間の教育現場から去る―という“花巻非戦論事件”としてのその前歴半生がこう刻まれる。
で,無職になった宗次郎が師内村の「君の適職は本屋」なる助言を忠実に守ったのが書籍取次業。店名の「求康堂」は聖書マタイ伝の「汝ら先(まず)神の国(全き平康)とその正しきとを求めよ」の精神から採っている(二荊自叙伝より)。その4年後には新聞取次業に乗り出し,それが宗次郎の本業となって,そこで底知れぬ世界観に満ちた青年,「賢治先生」に出会って親交を結んでいく―。ここでちょっと横道に。以前の宗次郎を知っていた誰彼が、「ヤソハゲアタマ」とか「ヤソハリツケ」とさんざんはやし立てたものが,誠に真剣で謙虚に配達している宗次郎に,いつの間にか「名物を買うなら花巻おこし、新聞を買うなら斎藤センセイ」―。随分な,変わりようだ。
こうして市民の信頼と人望を集めた宗次郎を,宗教学者山折哲雄氏が「デクノボーになりたい『私の宮沢賢治』、小学館」で,「―配達の時には、必ずポケットの片一方にあめ玉をたくさん入れ、もう一方には小銭を入れていた。子供たちに会うと、そのあめ玉を与える。病気の人がいると病床まで訪れて慰めの言葉をかけ、いくばくかの喜捨を置いて再び配達の仕事を続ける―」とある。同氏は,平成18年6月1日の岩手大学 開学記念講演会で「宮沢賢治と斎藤宗次郎」-『雨ニモマケズ』物語―と題しては「斎藤宗次郎が『デクノボー』なのかどうか、『雨ニモマケズ』の主人公のモデルなのかどうかの問題はあまり簡単に取り扱いたくはないと」と述べ,「問題の中心は賢治と宗次郎を結びつけるキーとなる問題」としている。それを付記しておきたい。
ともあれ,50余年暮らした花巻を離れ,住まいを東京に移したのが大正15年秋。宗次郎が「謙虚天真の光彩を放つ」と表現したその賢治が7年後,37歳の若さで没し,宮沢家を見舞ったのちの追憶には「農民芸術概論の序文の批評を乞われた。賢治先生の朗読する一句一句を傾聴し不肖ながら誠実の同意を表した。現代に対しての鋭利なる達観者宮沢賢治の構想としては一々首肯すべきものを感じた」(宮沢賢治研究資料集成第18巻、日本図書センター)とたたえることで,賢治から「休んでおでえんせ」と声を掛けられるままに,あれやこれやと話が弾んだ過ぎし日の数々が,宗次郎のこよない誇りとなってまぶたに浮かんでいった―。そんな気がしてならない。
来年は賢治生誕130周年を迎え,そこで宗次郎サンを語る機会にもなればと思う。