コンテンツへスキップ

本物語

一覧へ戻る

第83号 2025.11.30

再読,継読,気ままよみ(第4回)

沢田 誠二

 江夏美好「下々の女」 
 かなり前の晩秋,飛騨荘川の民俗資料館を訪れた。担当の婦人が当地を舞台とした作品として本書を紹介してくれた。物語は明治半ばに白川郷の旧家の末娘に生まれ昭和30年代末まで生きた「ちな」という女の生涯を綴った物語である。

 物語は大きく四つに分かれる。一は「ちな」の誕生から娘盛りの家出までである。厳しい風土,平家の落人が住み着いたという伝説,歌謡,日常に残るみやこ言葉,自給自足と通い婚をもととした大家族制,世の中が大きく変わろうとしている中,姉たちは母の内諾を得て町へ去る。あとに残された「ちな」は告げずに家を出る。
 二つ目は思い焦がれていた同郷の今治との同棲,結婚から夫の定年退職まで。同棲中に生れた子を死なせたが家出ゆえ里帰りも出来ず生家の子として埋葬。結婚,厳しい鉱山生活,いずれ合掌家に住む夢を持つ「ちな」は辛抱を旨として耐えながら四男三女の母となる。酒を欠かせない夫のための密かなぶどう酒つくり,一滴の乳も出ない中,重湯で育て小学校まで行けるようになった三女は手荒な鉱山職員に抗って腹を打たれ絶命する。丁稚に出る子どもたちとの別れ,思慮深い青年になった長男富雄は鉱内ダイナマイト事故で瀕死の大怪我,やっと回復,妻を得て男子(「ちな」にとって孫,剛)を授かるが妻は夫に〝虫唾が走る〟となじめず生家に戻る。赤紙が来て出征,戦地からの便りはやがて途絶える。次男は志願入隊,北支で負傷,入院中に結婚するも離婚,出稼ぎ先で死亡。三男は南洋航路の貨物船に乗っていたが生きて帰った。娘たち二人はそれぞれ嫁いで苦労しながら母となり、「ちな」にとってうれしい孫たちが生まれ育つ。鉱山三十余年、金は少しも貯められなかった。
 三つ目は夫妻の白川郷への移住。今治の退職金で念願の合掌家と僅かな田畑を得るも,購入時の利権屋からみ訴訟に翻弄される。併せてよそ者嫌いといえる村八分,末息子鉄が絡んだかもしれない不審火騒動で心休まることはない。二人の娘たちや親せき縁者の陰ながらの助けと好きな畑仕事で耐えるも夫今治の珪肺は次第に重くなる。
 四つ目はやっと終わった戦争から戦後の復興さわぎ,「ちな」の死までである。家を継ぐべき長男は戦後数年経っても生死不明のまま,三男が長男が帰るまでということ
で同居し嫁を娶る。不安定な立場の嫁と姑の諍いは日常となる。酒を飲むと暴れる末息子鉄と三郎との激しい喧嘩が付いて回る。長男富雄の戦死を認めざるを得なくなった「ちな」は子どもたちと親族立会で遺書を開封する。富雄の遺書には「息子剛の大学までの学費に父の貯金一切を使え」とだけ記してあった。「ちな」は富雄に関わる金を生計の当てにしないと決心,厳しいインフレの中自給自足の生活が続く。戦後の巨大復興事業,御母衣ダム建設工事によるにわか景気,急激な車社会、発足した自衛隊の影響が一帯に及ぶ中,長く患っていた夫今治を失い「ちな」は娘二人の陰ながらの励ましと古くからの友人縁者に居場所を求め,主婦の座を三男の嫁幸子に譲り隠居,東京の大学生になった孫の剛の行く末を楽しみに生きようとする。
 やがて「ちな」は亡くなった子どもたちや今治の夢を見るようになり,床に就く日が多くなった。ある朝,鉱山時代に聞いた不吉な野火鳥の鳴き声を聞く。次女志津と三郎に手を取ってもらい今治と子たちの墓を巡り,嫁幸子が心を込めた粥を美味しいと言って食べ,同じくきれいに整えてくれた床に臥し,再び覚めることはなかった。電報を受けた孫の剛は帰省の夜汽車の中であった。物語はここで終わる。

 著者は「ちな」という一人の女を通じて,辺境の底辺に生きた人々の様々を語ろうとした。時代の変化に翻弄され呻吟しながらも,訴える声を出さず,少しでも前を向いて生きた人たちである。何かにつけて自己を責める風土のもと,飛騨女の執念を持つ「ちな」を創造し,苦難を前世からの因果と考えるものの宗教に救いを求めず,周辺に心を砕き,残された子や孫へ期待を託した人々である。
 あれこれ書き込んで,取って付けたような挿話もあるが,底辺を語る叙事詩として島崎藤村の「夜明け前」に比肩する。叙情豊かで細やか,かつ深い想いの記述に心打たれる。谷水を引き込んだ台所の流し口に永く棲み付いていた岩魚の突然の死の挿話は生きるとはどういうことかについて考えさせてくれた。
 今、当地白川郷は世界レベル季節問わずの観光地になっている。訪れる人々は五平餅をほおばり巨大な茅葺屋根を背景に自撮りポーズするが,困苦に耐え忍んだ人々の物語を想像だにしない。合掌の家群、言葉あらば何を語るだろう。病苦に喘ぎながら本書を記し夭折した作家は何とこたえることだろう。
一覧へ戻る