本物語
第84号 2026.3.25
アイゼンハワーの恋
早坂 慶洋
1665年,第2次オランダ・イングランド戦争開始の年,オランダ軍はミュンスターの司教との戦争のさなかにあった。しかし,夜の8時に出動を命じられた騎兵隊の先遣隊は翌朝日の出の時刻になるまで全員の集合ができなかった。また進撃の命令を受領した一大佐はちょうど妻からの手紙が着いたので命令執行の前に返事を書きたいと,手紙を書き終わるまで2時間以上も総大将を待たせたことがあった。オラニエ公の下で戦ってきた歴戦の将官たちはほとんど全員が解雇され,多くがいずれ敵軍となるフランス軍に雇われてしまっており,軍の指揮に向いている者はほとんどいなかった。
(J.Ellis Barker,The Rise and Decline of The Netherlands, London,1906,Chap.18,P.357.)。
愛妻への執着が進撃命令の執行の阻害となった例が日本にもあった。時代は南北朝時代。足利軍はいったん入京したものの官軍の反撃に遭い,九州に落ちのびた。しかし新田義貞は,後醍醐天皇の寵愛を受けた美女勾当内侍(こうとうのないし)を賜り夫婦となったが,彼女に対する思いが大変深かったため,別れが惜しまれてなかなか出陣できず,出陣しても京に残した内侍に心が残りついに追撃の機を逸した,と人々に謗られた。
のち内侍は義貞が討ち死したとの報に失神,同じ野辺で露が消えるように死んでしまいたいと申されて,獄門になっていた義貞の首を見た内侍は泣き伏して起ち上がることが出来ず,その夜のうちに髪を下ろして尼となり,終生義貞の菩提を弔った,というから相思相愛であった。(平岩弓枝,太平記,pp.135,181‐182)
夢幻に現れるほどの憧れの美女と結婚することができたなら,凡人ならば,メロメロにとろけてしまい,妻へのサービスに没入し,公的な仕事のことなどは忘れてしまうかもしれない。とすれば,世の殿方には異論の向きもあるかも知れないが,そのような数奇な運命に巡り合ったとき,男たるもの,むしろ人生において断崖絶壁の岐路に立たされていると観念しなければならないであろう。悪くすると美女を妻に迎えたばかりに高師直(こうのもろなお)から妻を狙われ,妻子および家来共々一家を惨殺された塩冶判官(えんやはんがん)のような悲劇もありうる(同上,p.192~)。
ならば与謝野鉄幹の「妻をめとらば才たけてみめ美わしく情けある」の対極を志向,後世にその名を残したソクラテスや漱石や鷗外の妻たちのようなスパイスの利いた女性を好む御仁が現れても不思議はない。
450万人という欧州方面連合国遠征軍全軍の最高司令官としてノルマンディ上陸作戦などヨーロッパ戦線に号令を下し,連合国に勝利をもたらし,後にアメリカ合衆国大統領になったアイゼンハワー将軍は,自身に向かってズケズケと平気で直言するヒステリー持ちで気の荒いアイルランド人女性秘書Summersbyを特に気に入っていたという(Kay Summersby Morgan, Eisenhower Was My Boss, 1948, Past Forgetting, 1974, David Eisenhower, Eisenhower: At War. pp.198‐199.)。
アイゼンハワーはブライアンストン・コートを案内されたとき,シンプソン夫人の色香に迷って英国国王,インド皇帝の王冠を捨てたウインザー公(エドワード8世)について「何たる恥知らず。己の義務を見失った国王じゃないか。」(A shame, The King lost sight of duty.)と言ったという。また,その前年,ウインザー公がワシントンを訪問し陸軍省を訪れたとき,皆彼を無視していたが,アイゼンハワーは同僚のクラークに「あの男は一時は国王だった。男たるもの,あそこまで成り下がるとは呆れてものが言えない」(This man who had once been King. It was shocking how the man had gone down.)と言っていたという(Kay Summersby Morgan, Past Forgetting, p.30.)。
そこまでのたまわったアイゼンハワー将軍であったが,大戦が終結すると,豈図らんや,上司のマーシャル陸軍参謀総長に手紙を書き,「アメリカに帰任させてほしい。妻と離婚して,秘書のSummersbyと結婚したい」と頼み込んだ。これにはマーシャル参謀総長も怒り心頭に発し,「何たる恥知らずだ。もしそんな真似をするなら陸軍から追放して,一生息の根を止めてやる」と一喝した。アイゼンハワー将軍もこれには従うほかなかった。陸軍参謀総長,NATO軍最高司令官と重責を歩み,アメリカ合衆国大統領を2期8年を務めたその後の人生をすんでのところで危うく棒に振るところであった。(op.cit., p.12,Margaret Truman ed., Where The Buck Stops, p.72n)。Summersbyは終戦2年後の1947年除隊してアメリカに移住,1952年ウォール街の株式仲買人と結婚,1958年離婚,1975年Long IslandのSouthamptonの自宅でがんのため死去。66歳であった。
(J.Ellis Barker,The Rise and Decline of The Netherlands, London,1906,Chap.18,P.357.)。
愛妻への執着が進撃命令の執行の阻害となった例が日本にもあった。時代は南北朝時代。足利軍はいったん入京したものの官軍の反撃に遭い,九州に落ちのびた。しかし新田義貞は,後醍醐天皇の寵愛を受けた美女勾当内侍(こうとうのないし)を賜り夫婦となったが,彼女に対する思いが大変深かったため,別れが惜しまれてなかなか出陣できず,出陣しても京に残した内侍に心が残りついに追撃の機を逸した,と人々に謗られた。
のち内侍は義貞が討ち死したとの報に失神,同じ野辺で露が消えるように死んでしまいたいと申されて,獄門になっていた義貞の首を見た内侍は泣き伏して起ち上がることが出来ず,その夜のうちに髪を下ろして尼となり,終生義貞の菩提を弔った,というから相思相愛であった。(平岩弓枝,太平記,pp.135,181‐182)
夢幻に現れるほどの憧れの美女と結婚することができたなら,凡人ならば,メロメロにとろけてしまい,妻へのサービスに没入し,公的な仕事のことなどは忘れてしまうかもしれない。とすれば,世の殿方には異論の向きもあるかも知れないが,そのような数奇な運命に巡り合ったとき,男たるもの,むしろ人生において断崖絶壁の岐路に立たされていると観念しなければならないであろう。悪くすると美女を妻に迎えたばかりに高師直(こうのもろなお)から妻を狙われ,妻子および家来共々一家を惨殺された塩冶判官(えんやはんがん)のような悲劇もありうる(同上,p.192~)。
ならば与謝野鉄幹の「妻をめとらば才たけてみめ美わしく情けある」の対極を志向,後世にその名を残したソクラテスや漱石や鷗外の妻たちのようなスパイスの利いた女性を好む御仁が現れても不思議はない。
450万人という欧州方面連合国遠征軍全軍の最高司令官としてノルマンディ上陸作戦などヨーロッパ戦線に号令を下し,連合国に勝利をもたらし,後にアメリカ合衆国大統領になったアイゼンハワー将軍は,自身に向かってズケズケと平気で直言するヒステリー持ちで気の荒いアイルランド人女性秘書Summersbyを特に気に入っていたという(Kay Summersby Morgan, Eisenhower Was My Boss, 1948, Past Forgetting, 1974, David Eisenhower, Eisenhower: At War. pp.198‐199.)。
アイゼンハワーはブライアンストン・コートを案内されたとき,シンプソン夫人の色香に迷って英国国王,インド皇帝の王冠を捨てたウインザー公(エドワード8世)について「何たる恥知らず。己の義務を見失った国王じゃないか。」(A shame, The King lost sight of duty.)と言ったという。また,その前年,ウインザー公がワシントンを訪問し陸軍省を訪れたとき,皆彼を無視していたが,アイゼンハワーは同僚のクラークに「あの男は一時は国王だった。男たるもの,あそこまで成り下がるとは呆れてものが言えない」(This man who had once been King. It was shocking how the man had gone down.)と言っていたという(Kay Summersby Morgan, Past Forgetting, p.30.)。
そこまでのたまわったアイゼンハワー将軍であったが,大戦が終結すると,豈図らんや,上司のマーシャル陸軍参謀総長に手紙を書き,「アメリカに帰任させてほしい。妻と離婚して,秘書のSummersbyと結婚したい」と頼み込んだ。これにはマーシャル参謀総長も怒り心頭に発し,「何たる恥知らずだ。もしそんな真似をするなら陸軍から追放して,一生息の根を止めてやる」と一喝した。アイゼンハワー将軍もこれには従うほかなかった。陸軍参謀総長,NATO軍最高司令官と重責を歩み,アメリカ合衆国大統領を2期8年を務めたその後の人生をすんでのところで危うく棒に振るところであった。(op.cit., p.12,Margaret Truman ed., Where The Buck Stops, p.72n)。Summersbyは終戦2年後の1947年除隊してアメリカに移住,1952年ウォール街の株式仲買人と結婚,1958年離婚,1975年Long IslandのSouthamptonの自宅でがんのため死去。66歳であった。