コンテンツへスキップ

本物語

一覧へ戻る

第84号 2026.3.25

三 人 の 兄

中尾 富枝

 私には三人の兄がいた。次兄が去年の八月四日を一期として三人の兄達は過去の人になった。
 三兄は父が兵隊に召集中に亡くなった。 田舎はどこでもそうであったように屋敷の端ばしに柿の木,桃の木,梨や栗の木などが植えてあった。戦争中で三度の食事以外に食べるものが無かった時代,それらの果物は子供にとって手にしないではいられない食べ物だった。三兄は私を連れてそれらの木を巡り少しでも色づいた物を見つけると「とみえ,この枝をしっかり引っ張ってろよ」と云いつけるとその果物を手に入れるのだった。食べ盛り育ち盛りの三兄は未熟な果物を食べ過ぎたことが原因の病気で亡くなった。
 私が長兄を兄と認識した時,兄は今思えば当時の青年学校の制服なのであろうかカーキ色の上下の服にゲートルを巻いた兵隊予備軍の訓練生であった。長く召集されてインドネシアの方まで行ったという父が帰還し,長兄は鉱山で働き出した。私の町は純然たる農村部と鉱山とにはっきり分かれていて全く別々の町のようであった。農村部から鉱山の方に行くとそこには商店街があって文化会館という大きな建物も建っていた。この鉱山は銅や亜鉛の生産では全国有数で戦争中はこの鉱山めがけてB29という文字がはっきり見え,我が家の屋根にぶつかるような低空飛行で次々にやって来た。長兄は鉱山の実験室という部署で働いていた。長兄は本社からやって来る大学出の上司に大いに憧れているようであった。私が高校受験を控えて夜中まで起きていると三番方の勤務を終わった長兄がバイクで帰って来る。冬は雪だるまのようになっている。私は兄の好きなコーヒーを入れてやったりした。上司の感化か兄はコーヒーが大好きだった。コーヒーを飲み終ると兄は寝床に入り毎月定期購入している三冊ほどの文芸月刊誌を読むようだった。だからいつも朝の早起きは苦手で農作業が気になる父に叱られてばかりいた。本なんか読んでなんになるが父の口癖だった。父は厳しかった。戦役では伍長だったという父は後年,町では有名な厳格人間で通っていた。
 長兄は上司に可愛がられていたようで上司が仙台に出掛ける時には同行することがあったらしく帰ると「とみえ,〇〇さんは本屋に行くと書棚を指さして「ここからここまでくれ」と云って買うんだぞ」と自分の自慢話のように話すのだった。長兄夫婦の部屋は文芸雑誌と全集などであふれていた。私が本を読むようになったのは長兄の影響なのだろう。
 次兄は戦後の学制で出来た高等学校の一期生だった。父が長い不在の末にやっと帰還して間もなくのこと次兄は高校に通うことを遠慮してか汽車通学はせず線路を走って通学したという。卒業後は長兄と同じ鉱山に入った。その頃どうした訳か鉱山に本社から赴任した新婚の御夫婦が我が家の奥座敷二間を使って住んでおられた。ある時,そのお偉いさんが兄に云った。「あなたは跡取りじゃないんだから家に残らなくてもいいんじゃないの,東京にでも出たらどうか」と。その言葉に促されて兄は上京した。明治大学の夜間部に入学し,働きながら自力で卒業したようだ。その後何年かして友人三人と起業した。最後は友人二人に託されてその会社の社長になった。
 次兄が高校生になったばかりの頃であったろうか,「とみえ,いい物つくってやるぞ」兄は珍しく優しく言うと小さく板キレを切り始めた。出来上がったのは木製の弁当箱のようなものでそれには電気が通じるようになっていた。兄はその中に小麦粉を水で溶いたものをトロトロと流し入れた。驚いて見つめていると木の弁当箱のような容器に入れられた小麦粉を溶いたものはチリチリパリパリと音を立て始めた。それには砂糖は入っていなくて少量の味噌が入っていた。おいしかった記憶はないけれど今も兄が作ってくれたおやつの焼けるパリパリチリチリという音だけが昨日の事のように聞こえている。
 次兄は厳しかった。でもそれは自分に対してであっただろう。経営者になり立ての頃,兄が云った言葉が忘れられない。「儲けても税金に持っていかれるだけだから社員の給料にやるんだ」という言葉を。晩年の兄は優しいだけではない思いやりの深い人間であった。長兄とは双生児のように仲が良く,長兄一人に実家を任せて東京に出た自分を責め続けている感じがした。家に居る頃はよく二人で一緒に出掛けていた。顔が濃い次兄の方がよく年上に見まちがえられたと帰って来ると大笑いしていた。晩年は一切を次兄持ちの兄妹会を十五,六年は続けたろうか。
 思えば三人の兄とは一回も喧嘩などしたことがなかった。「とみえ,この枝を引っ張ってろよ」という三兄の声と,次兄が焼いてくれた木の弁当箱の中のチリチリパリパリという音が今も聞こえてきます。
一覧へ戻る