コンテンツへスキップ

本物語

一覧へ戻る

第84号 2026.3.25

斎藤宗次郎の「献身」

小西 忠人

 前回(「本物語」第83号)に続いてもう一度,斎藤宗次郎にふれてみたい。
 明治10年に花巻の東光寺という禅寺に生まれながらキリスト教徒として91年。その長い年譜を改めて繰ると,内村鑑三の思想に傾倒して以降,人生のほぼ70年間というものが内村を師と仰ぎ,内村の言行を忠実に支える弟子だったことを再認識するからである。20代から30代後半にかけて迫害と批判を浴びる中でも内村を信奉し,内村亡き後もその恩義に思いをはせる宗次郎の生きようを,この稿の主題にしたい。
 ついては前回の私の駄文を少し繰り返えさせていただくと,14歳で斎藤竹次郎の養子となった宗次郎は,岩手県立尋常師範学校で学び,卒業後に洗礼を受け,当時の花巻町内の小学校の教壇に立つ。そのころ中央では内村が堺利彦,幸徳秋水らが日露反戦論を展開している最中で,宗次郎も非戦の決意を固め,納税拒否や徴兵忌避を主張し,教室ではキリスト教の教えを説く――この一連の言動に当時の教育界はただならぬ事態とばかりに動き出し,宗次郎はついに退職に追い込まれ,そればかりか僧侶である実父や養父,親戚縁者までもキリスト教信仰の言動に不信の目を向け,それもかなり厳しい非難を浴び,外では「ヤソハゲアタマ」「ヤソハリツケ」などのはやし声に石も飛び,結核で吐血を繰り返していたのもそのころで,無事に回復して求康堂を開業して間もなく今度は,長女,続いて妻の死――。7歳になる次女多祈との暮らしは平穏とは程遠いながらも,懸命に働く宗次郎の気丈な姿がそこにはあったという。
 その次女多祈のことになるが,12歳で東京の女子学院に入学し,東京女子大英文科予科へと進み,翌年に婚約者である鈴木茂夫を婿に取り,18歳で結婚。その多祈夫婦のもとで,宗次郎は後添えの仁志(ひとし)と東京での暮らしが始まるが,ついでに言えば,宗次郎の孫娘の児玉(斎藤)佳與子さんが,小学生で集団疎開先の長野県にいる間に,宗次郎とのはがきが盛んに交わされていたのは,ずっと先のことになる。
 話を戻すと,無職となった宗次郎に本の取次業を勧めたのも内村。店名の「求康堂」は聖書の「汝ら先(ま)ず神の国(真理と自由と平康)とその正しさを求めよ」(マタイ6・33)に基づくという生き方に。4年後に新聞取次業に切り替え,そこで花巻農学校時代の賢治と出会うのもその時期で,本業である新聞を配る仕方も独特であったがゆえに宗次郎へ向ける世評は次第に変化し,町に聞こえてくるのは「新聞を買うなら斎藤センセイ」。そんな親しみが混ざるものだった――と前回でふれた。
 17年間の新聞取次業を切り上げて東京永住の決心は多祈夫婦の計らいも理由の一つとされるが,私心なき情熱で尽くす「不動の信念」。その延長線上には「聖霊の導き給うまま」真摯に自分に向き合って生きることでもあっただろう。そして大正15年9月、旅立つ日の花巻駅のホームには宗次郎の人望を集めるかのように警察署長や花巻町長,僧侶,神官,その数ざっと200人が見送ったという(花巻市博物館資料)。
 その東京で。内村鑑三のもとにはじつに多くの弟子(門下生とも),それもそうそうたる顔ぶれが集まり,また「離れている」のも内村を語る上で重要なことらしいが, 
その内村をして「内村鑑三の生涯」(PHP研究所)」の著者,小原信氏は「内村鑑三という人は,近くで見ると,おそらく『おっかない人』であり,そばにいる人には,神経の休まらない大変な人であったのではないか。しかし,その反面,その強烈な個性のゆえに,多くの人に忘れられない印象を残したふしぎな人でもあった,というのがほんとうのところであろう」と。それほど強烈な自我の持ち主のもとで内村の地方伝道に随行し,その傍らで雑誌発送事務や雑務もこなす,そうした宗次郎がいかに内村に徹していたか,その事例として同氏がこう挙げるのは「鑑三の一言一句を、その日のうちに、日記として書きとめ、さらに後年、丁寧に肉筆で清書したのである」と。
 そして最も宗次郎の本質が表れるのは,内村の病室(昭和5年3月)の隣室に泊まって日夜看護し,絶命するまでの4時間「数分ごとの呼吸の数まで数えた」(同博物館)ことと,内村死後の「内村鑑三全集(第40巻)」編集も実践的な立場に立ち,結核療養所などへの伝道慰問,さらには「恩師言」「或る日の内村鑑三先生」などを書き残すのは,内村の謦咳に接する宗次郎その姿であり,91歳の天寿を全うするまで全身全霊で内村を信奉し,まっすぐ歩み続けた圧倒的エネルギーは,自ら掲げた「求康」の精神こそが,宗次郎の生きようを物語っているようにしか私には思えてならない。
 先にふれた佳與子さんへの「斎藤宗次郎・孫佳與子との往復書簡」(教文館)には,体をいたわり,励まし,「正直で親切であれよ」と1年3カ月の間にせっせと100回近くも送っている。中には「オジイサンカラノハガキヲウシナワナイヨウニオネガイシマスヨ」と添えるあたりは,祖父のけなげな“愛情”表現,と受け取りましょうか――。
 同博物館が,今後もっと宗次郎サンの魅力を発信したいとしているのがうれしい。
一覧へ戻る