本物語
第85号 2026.7.25
日本史ウオーキング (その1)
白川 治子
神奈川県横浜市
長く続けていること,今回は2002年から始めた「日本史ウオーキング」です。高校時代からの親友が「世界史は少し分かるけど,日本史は分からないから勉強したい」と言いだしたのがきっかけです。「今さら史料を読むのも難儀だから,実際に史跡を訪ねよう」と時代順に歩く日本史ウオーキングを始めました。泊りも含め,年に数回は歩いていましたが,コロナ禍のために小休止。江戸時代前半で止まったままですが,友達の体調が悪く,私も当時の活力がないので復活は難しそうです。
訪ねた史跡全部を書くと膨大になるので,個人的に印象に残ったものを数か所。
①岩宿遺跡
群馬県岩宿の関東ローム層から、当時は無名の青年だった相沢忠洋さんが黒曜石の石槍を発見したことで,日本にも旧石器時代があったことが分かりました。1949年のこと。この大発見を報じた新聞は,確認した明治大学の杉原教授の名前だけで,発見者の相沢さんをアマチュア考古学者としか載せなかったのです。大学の権威主義を思わずにはいられません。
今では相沢さんの名前は教科書にも載っています。相沢さんの旧居そばにある「相沢忠洋記念館」で,奥様が忠洋さんの人柄や歴史を覆した黒曜石の石槍について熱を込めて話してくれました。もちろんその黒曜石も飾ってあります。
「その石器は長さ7センチ、幅3センチほどの長菱形で周縁全体がきれいに加工され,一端は鋭くとがり,一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。空にかざして太陽にすかしてみるとじつにきれいに透き通り,中心部に白雲のような筋が入っている」と相沢氏の著作にあります。
②大森貝塚
私は里山や田畑ばかりだった地を大規模造成した港北ニュータウンに住んでいます。造成の頃は発掘現場があちこちにあり,旧石器時代,縄文時代,彌生時代の遺跡から出土した土器や竪穴住居跡を飽きるほど見ています。これについて書きだしたらキリがないので,若い頃に有名だった東京の大森貝塚を取り上げます。
60年ほど前ですが,京浜東北線で「蒲田」から「田町」の職場に通っていました。
大森駅を出るとすぐ「大森貝塚」の縦長の石碑が見え,数分後の大井町駅付近に横長の「大森貝塚」の碑が見えます。アメリカ人のモースは1877年に来日し,横浜(桜木町)から東京(新橋)に向かう車窓から貝塚の地層を発見したのです。海沿いの席に座ってなければ発見は遅れたかもしれません。それにしても当時の技術で,発掘場所がこんなに広範囲はおかしいなと思いつつ,横浜に越したこともあり疑問はそのまま。
ところが、私が2つの石碑を見てから10数年が過ぎた1977年(発見100年後)に「大森貝塚は大森にない」と新聞に大きく載りました。発掘保障金の文書に「大井鹿島台」の地名があり,いわゆる大森貝塚は大森ではなく,大井町(品川区)にあったことが判明。ウオーキングでも行かずばなるまいと思い,車窓からしか見なかった2つ石碑の写真も苦労して撮りました。お墨付きをもらった品川区は,遺跡公園や品川歴史館を整備してアピールしています。当時の遺跡が広範囲に保存されている三内丸山遺跡には敵わないですが,明治10年に発掘されたことに意義があります。モースが来日しなければ,日本の考古学はもっと遅れたでしょう。
③大仙古墳(伝仁徳天皇陵)
世界の3大古墳は堺の大仙古墳,エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と言われています。外国の2つは見ているのに,この古墳は写真で見ただけ。史跡を目で確かめるのが目的ですから,外すわけにはいきません。
宮内庁の説明板は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」とあり,大仙の名はなし。考古学者の間では「仁徳天皇が葬られている可能性は造営時期からしてあり得ない。でも誰の墓か断定できてない」が定説です。教科書も全てではありませんが,ほとんどは大仙古墳となっています。仁徳天皇陵のカッコすらないのもあります。
この論争はさておいて,がっかりしたのは,写真で見慣れている前方後円墳を見下ろす高台がないことでした。目の前にあるのは単なる森。「堀は三重になっていますが見えるのは外堀だけ。当時の土木技術は素晴らしかった」とガイドが熱心に説明してくれました。「仁徳天皇は葬られてない」の一言がなかったのは当然です。上から見られないなら,せめて古墳の周囲を歩こうと2850mを一周しましたが,内堀など見えま
せん。整っているのは正面だけで,古墳内の森は手入れが十分とは言えず,ラブホテルが古墳に迫っていたりして「オモテとウラの違い」が面白過ぎました。
訪ねた史跡全部を書くと膨大になるので,個人的に印象に残ったものを数か所。
①岩宿遺跡
群馬県岩宿の関東ローム層から、当時は無名の青年だった相沢忠洋さんが黒曜石の石槍を発見したことで,日本にも旧石器時代があったことが分かりました。1949年のこと。この大発見を報じた新聞は,確認した明治大学の杉原教授の名前だけで,発見者の相沢さんをアマチュア考古学者としか載せなかったのです。大学の権威主義を思わずにはいられません。
今では相沢さんの名前は教科書にも載っています。相沢さんの旧居そばにある「相沢忠洋記念館」で,奥様が忠洋さんの人柄や歴史を覆した黒曜石の石槍について熱を込めて話してくれました。もちろんその黒曜石も飾ってあります。
「その石器は長さ7センチ、幅3センチほどの長菱形で周縁全体がきれいに加工され,一端は鋭くとがり,一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。空にかざして太陽にすかしてみるとじつにきれいに透き通り,中心部に白雲のような筋が入っている」と相沢氏の著作にあります。
②大森貝塚
私は里山や田畑ばかりだった地を大規模造成した港北ニュータウンに住んでいます。造成の頃は発掘現場があちこちにあり,旧石器時代,縄文時代,彌生時代の遺跡から出土した土器や竪穴住居跡を飽きるほど見ています。これについて書きだしたらキリがないので,若い頃に有名だった東京の大森貝塚を取り上げます。
60年ほど前ですが,京浜東北線で「蒲田」から「田町」の職場に通っていました。
大森駅を出るとすぐ「大森貝塚」の縦長の石碑が見え,数分後の大井町駅付近に横長の「大森貝塚」の碑が見えます。アメリカ人のモースは1877年に来日し,横浜(桜木町)から東京(新橋)に向かう車窓から貝塚の地層を発見したのです。海沿いの席に座ってなければ発見は遅れたかもしれません。それにしても当時の技術で,発掘場所がこんなに広範囲はおかしいなと思いつつ,横浜に越したこともあり疑問はそのまま。
ところが、私が2つの石碑を見てから10数年が過ぎた1977年(発見100年後)に「大森貝塚は大森にない」と新聞に大きく載りました。発掘保障金の文書に「大井鹿島台」の地名があり,いわゆる大森貝塚は大森ではなく,大井町(品川区)にあったことが判明。ウオーキングでも行かずばなるまいと思い,車窓からしか見なかった2つ石碑の写真も苦労して撮りました。お墨付きをもらった品川区は,遺跡公園や品川歴史館を整備してアピールしています。当時の遺跡が広範囲に保存されている三内丸山遺跡には敵わないですが,明治10年に発掘されたことに意義があります。モースが来日しなければ,日本の考古学はもっと遅れたでしょう。
③大仙古墳(伝仁徳天皇陵)
世界の3大古墳は堺の大仙古墳,エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と言われています。外国の2つは見ているのに,この古墳は写真で見ただけ。史跡を目で確かめるのが目的ですから,外すわけにはいきません。
宮内庁の説明板は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」とあり,大仙の名はなし。考古学者の間では「仁徳天皇が葬られている可能性は造営時期からしてあり得ない。でも誰の墓か断定できてない」が定説です。教科書も全てではありませんが,ほとんどは大仙古墳となっています。仁徳天皇陵のカッコすらないのもあります。
この論争はさておいて,がっかりしたのは,写真で見慣れている前方後円墳を見下ろす高台がないことでした。目の前にあるのは単なる森。「堀は三重になっていますが見えるのは外堀だけ。当時の土木技術は素晴らしかった」とガイドが熱心に説明してくれました。「仁徳天皇は葬られてない」の一言がなかったのは当然です。上から見られないなら,せめて古墳の周囲を歩こうと2850mを一周しましたが,内堀など見えま
せん。整っているのは正面だけで,古墳内の森は手入れが十分とは言えず,ラブホテルが古墳に迫っていたりして「オモテとウラの違い」が面白過ぎました。