本物語
第85号 2026.7.25
《埴谷雄高アンドロメダ文学賞》創設を!
水澤 葉子
福島県福島市
人には好みがあり,同好の士という言葉もありますが。が,「好み」と一口に言っても,そこには自ずと程度があり,「なんとなく」「どちらかと言えば」から「絶対に」「誰がなんと言おうとも」まで,けっこう幅があるのではないでしょうか。 「好み」も度が過ぎれば, 「狂」と言われ兼ねない。その「狂」が現在の自分であるというのは,果たして如何なものでしょう⁉
個人ごとですが,原稿の提出だけで立派な書籍が完成したのは昨年の秋。正確には,三九出版さんとスポンサーの友人の並々ならぬ奉仕のお陰でありますが,ここはその表題《米寿の祖母(ばぁば)は、はにや狂――埴谷雄高『死霊』を読み継ぐ――》の《埴谷雄高》にのみ拘らせていただきます。
埴谷雄高が没して来年2月で30年となります。没後10年に横浜の神奈川近代文学館へ,急遽刊行した手作り個人誌《はにや》創刊号を携えて,畏敬の念に身を固くして足を踏み入れたあの日……。なんとあれから20年が過ぎ去りました。老いゆるはずです。よく知人に聞かれるのは「ハニヤ,ハニヤって,埴谷雄高のどこがいいの?」であります。どこなんでしょう⁉ 無理に言葉を探すならば,極端きわまりなき《オタク》に尽きるでしょうか。
ここまでが,非常に長い前置きです。
私はずうっと一つのことを思っていました。 《埴谷雄高アンドロメダ文学賞》を創設したい,ということです。「あれ? 無い!」と思ったのは20年も前ですけれど,何故だろうととても不思議でした。そして今もってわかりません。埴谷雄高ご本人は,全くそんな想定はしてなかったとは思います。招待旅行は拒否,自著の文庫化さえも拒否されてますから。それでも,です。ソウソウたる作家さん,評論家さんが,そして大手の出版社さんが,何故に声を上げなかったの! 地方の一ファンの私は,声を上げたいとずうっと思っていました,20年間も。今にして不安になっているのは,審査に携わっていただく方の人材のことであります。
埴谷雄高生存中なら,関わらない人を探すのが大変な状況だったと思います。賞の創設費用よりも,その方がずうっと大きく案じられてきています。
吉本隆明も北杜夫,立花隆,安倍公房,渋澤龍彦,花田清輝,松本昌次,斎藤慎爾,鶴見俊輔,小川国夫も,みな次元を異にしています。髙橋和巳,池田晶子など,埴谷雄高の推した若い作家も,押してくれた人よりも早くに次元を越えました。五木寛之氏や白川正芳氏,鹿島徹氏,島田雅彦氏,あと……藤井貴志氏でしょうか。この方の三年前に出された――<ポストヒューマン>の文学――。その本の「あとがき」には埴谷雄高への,そして『死霊』への思いが書かれ,批判を覚悟で言わせていただけば,私の思いと全く重なっていました。
埴谷雄高の著書の一大特徴は,『死霊』以外がぜんぜん難しくないということです。エッセイも対談も,丁寧で読み易いです。これはほんとうですが,だから,あの独特の,どこでも出合えない難解と括られる『死霊』に戻りたくなるのかもしれません。
私はただ,埴谷雄高が読み継がれればいい。本人の言われる《精神のリレー》が途切れなければいい。それだけを念仏のように唱えているのです。読み手の頭が痛くなる形而上なる文をも書く人の実生活は,まことに多彩。映画鑑賞,野球,カメラ,囲碁,新宿のバー巡り,パチンコまで,遊ぶことも人後に落ちない。ゆえに恰好いい!
埴谷雄高は友達を大事にしました。体調の優れないのを押して,薬を含みながら梅崎春生の法要に出席しています。平野謙の癌の手術に立ち会ったり,入院をしている竹内好の病室に毎日定時に見舞ったりしています。そして友人から大事にもされました。『死霊』執筆四章から五章への間,結核で長期中断していますが,『近代文学』の仲間は暮らしを心配してカンパ行為をしてくれたと言われてます。当時の結核は殆ど死を宣告されたに等しい病名でありましたから。
今回の出版で読まれた方から頂いた文面に共通項がありました。 『死霊』-は曾て一度開いているが,書かれていることが理解不能でパタンと閉じて元の位置。今回の講座ふうの著作を隣りに置いて,もう一度しっかり読んでみようと思った――それは,大変に嬉しい感想でした。その後日談をこそお待ちしたいと念じております。
著作本の中にも入れましたが(P.84),かつて渋澤龍彦が書いた文を再掲して締めといたします。――『死霊』は、エンターティメントとして読まれ得るということを強調しておき、いたずらに『死霊』を難解視して、大衆の手の届かないところに置こうとするのは、むしろ埴谷氏の思想家的、作家的真価を貶(おとし)めることだと思う。『死霊』はベストセラーになってよいのである。――(朝日ジャーナル 1976/10/1)
個人ごとですが,原稿の提出だけで立派な書籍が完成したのは昨年の秋。正確には,三九出版さんとスポンサーの友人の並々ならぬ奉仕のお陰でありますが,ここはその表題《米寿の祖母(ばぁば)は、はにや狂――埴谷雄高『死霊』を読み継ぐ――》の《埴谷雄高》にのみ拘らせていただきます。
埴谷雄高が没して来年2月で30年となります。没後10年に横浜の神奈川近代文学館へ,急遽刊行した手作り個人誌《はにや》創刊号を携えて,畏敬の念に身を固くして足を踏み入れたあの日……。なんとあれから20年が過ぎ去りました。老いゆるはずです。よく知人に聞かれるのは「ハニヤ,ハニヤって,埴谷雄高のどこがいいの?」であります。どこなんでしょう⁉ 無理に言葉を探すならば,極端きわまりなき《オタク》に尽きるでしょうか。
ここまでが,非常に長い前置きです。
私はずうっと一つのことを思っていました。 《埴谷雄高アンドロメダ文学賞》を創設したい,ということです。「あれ? 無い!」と思ったのは20年も前ですけれど,何故だろうととても不思議でした。そして今もってわかりません。埴谷雄高ご本人は,全くそんな想定はしてなかったとは思います。招待旅行は拒否,自著の文庫化さえも拒否されてますから。それでも,です。ソウソウたる作家さん,評論家さんが,そして大手の出版社さんが,何故に声を上げなかったの! 地方の一ファンの私は,声を上げたいとずうっと思っていました,20年間も。今にして不安になっているのは,審査に携わっていただく方の人材のことであります。
埴谷雄高生存中なら,関わらない人を探すのが大変な状況だったと思います。賞の創設費用よりも,その方がずうっと大きく案じられてきています。
吉本隆明も北杜夫,立花隆,安倍公房,渋澤龍彦,花田清輝,松本昌次,斎藤慎爾,鶴見俊輔,小川国夫も,みな次元を異にしています。髙橋和巳,池田晶子など,埴谷雄高の推した若い作家も,押してくれた人よりも早くに次元を越えました。五木寛之氏や白川正芳氏,鹿島徹氏,島田雅彦氏,あと……藤井貴志氏でしょうか。この方の三年前に出された――<ポストヒューマン>の文学――。その本の「あとがき」には埴谷雄高への,そして『死霊』への思いが書かれ,批判を覚悟で言わせていただけば,私の思いと全く重なっていました。
埴谷雄高の著書の一大特徴は,『死霊』以外がぜんぜん難しくないということです。エッセイも対談も,丁寧で読み易いです。これはほんとうですが,だから,あの独特の,どこでも出合えない難解と括られる『死霊』に戻りたくなるのかもしれません。
私はただ,埴谷雄高が読み継がれればいい。本人の言われる《精神のリレー》が途切れなければいい。それだけを念仏のように唱えているのです。読み手の頭が痛くなる形而上なる文をも書く人の実生活は,まことに多彩。映画鑑賞,野球,カメラ,囲碁,新宿のバー巡り,パチンコまで,遊ぶことも人後に落ちない。ゆえに恰好いい!
埴谷雄高は友達を大事にしました。体調の優れないのを押して,薬を含みながら梅崎春生の法要に出席しています。平野謙の癌の手術に立ち会ったり,入院をしている竹内好の病室に毎日定時に見舞ったりしています。そして友人から大事にもされました。『死霊』執筆四章から五章への間,結核で長期中断していますが,『近代文学』の仲間は暮らしを心配してカンパ行為をしてくれたと言われてます。当時の結核は殆ど死を宣告されたに等しい病名でありましたから。
今回の出版で読まれた方から頂いた文面に共通項がありました。 『死霊』-は曾て一度開いているが,書かれていることが理解不能でパタンと閉じて元の位置。今回の講座ふうの著作を隣りに置いて,もう一度しっかり読んでみようと思った――それは,大変に嬉しい感想でした。その後日談をこそお待ちしたいと念じております。
著作本の中にも入れましたが(P.84),かつて渋澤龍彦が書いた文を再掲して締めといたします。――『死霊』は、エンターティメントとして読まれ得るということを強調しておき、いたずらに『死霊』を難解視して、大衆の手の届かないところに置こうとするのは、むしろ埴谷氏の思想家的、作家的真価を貶(おとし)めることだと思う。『死霊』はベストセラーになってよいのである。――(朝日ジャーナル 1976/10/1)