本物語
第85号 2026.7.25
我が家のルーツを探る旅(五)
岡本 崇
京都府木津川市
2010/10/31 娘の長男が三歳を迎えたので,七五三のお祝いを京都嵐山吉兆で行い,松尾大社にお参りした。 五世紀頃に大陸から渡来した豪族・秦氏 によって創建された京都最古の社だが,室町時代以降,酒造の神として全国から信仰を集めた神社。 我が祖,千葉一族が支配していた千葉県は秦氏を始めとする渡来系の人々が移住した歴史があるらしく, 京都の松尾大社から勧請し創建された神社が複数あるようだ。
翌,11/1は千葉県浦安市のホテル舞浜ユーラシアで,高崎経済大学時代のゼミの仲間が集う難波田会が開催されるので,早朝,京都を出て千葉市中央区にある亥鼻城跡に向かった。階段を上がり亥鼻城の石碑の前に行ったら,1匹の猫が出迎えてくれた。カメラを向けたら仰向けにひっくり返り手招きをした。猫について2分ほど歩いて行くと,何と,そこには,我が祖,千葉常胤の銅像が有ったので吃驚した。午後からは,近くの千葉神社妙見本宮(高崎市の妙見社から勧請した神社)・千葉神社尊星殿・千葉天神・出世弁天社等を参拝したが,弁天社の前にも千葉常胤の像が置かれていた。
今回の難波田会の幹事は,群馬県出身で浦安市に住む青木豊君だ。彼はNPO法人ゆい思い出工房の理事長をしていて写真展などいろいろ活動しているが,その中に「ゆい偉人館」があり,偉人や著名人をネットで紹介している。2017年には青木君に頼まれて,「真田幸村」の後編を書いて届けたことがあった。その時は,橋本市高野口町に住んで居た学友の井関秀真剣士と,オープンしたばかりの真田ミュジアムを訪問して一緒に写した写真も掲載頂いた。2023年には我が祖「千葉常胤」の執筆を依頼されたので喜んで引き受けた。青木君は「鎌倉幕府と千葉の礎を築いた立役者千葉常胤」というタイトルで本にもしてくれ,神谷俊一千葉市長や熊谷俊人千葉県知事達にも贈呈してくれた。スマホのグーグルに「ゆい偉人館 千葉常胤」と入力して,出てくる表紙の右上の「GoTo PC版」をクリックすれば,私の書いた記事の全文が読める。
2026年6月は千葉常重が亥鼻付近に本拠を移した、千葉開府900年にあたる。
1/2の朝は青木豊君と大谷武彦君とホテルの屋上で富士山を背景に写真を撮った。 大谷君は同期の青木君とも親しく,世田谷に住んで飛島建設退職後も多方面で活躍している。彼は愛知県の高校を出ているが,出身は私と同じ奈良県吉野方面だと聞くので親近感がある。朝食を済ませてから,私は同級生の杉浦捷之・村松武巳・早川敏章・豊沢淳一君たちと,大学の恩師,難波田春夫先生のお墓参りに出かけた。
先生は1991年に85歳で亡くなっておられるので没後19年になっていた。先生のお墓は東京都あきる野市の西多磨霊園にあるが,グーグルに「まいり 難波田春夫」と入力すれば関連情報がある。お墓参りを済ませた後, 私は一人で近くの青梅市に向かった。ここには親戚の半田絢子(旧姓岡本)さんが住んで居られた。木津川市から西吉野の柿畑へ週2回程行って,学友や社友達と富有柿栽培を楽しんでいたが,毎回通る道際の山口家から祖父の弟家へ嫁に来ている過去帳が記憶にあった。寺に立ち寄り聞こうとするが,個人情報は教えられないという。仕方なく墓石を探したら,赤い文字で建立者の名前が見つかった。聞いて回ると,山口家は現在,堺市に転居して病院を経営していると教えてくれた。病院へ手紙を出して1か月ほどしたら,「生きてるよ」と,99歳の絢子さんから電話が有って吃驚,90歳からPCを始めたという青梅市に一人で住む絢子さんに今回初めてお会いした。紙面に限りがあるので,その素晴らしい出会いはここでは省略。その夜は,息子の住む音羽のマンションに泊り,翌日は,一緒に鹿島神宮方面に向かう。最初に訪問したのは千葉県東庄町の東大社。千葉常胤の六男,胤頼から始まる。1185年の壇ノ浦戦いで平氏が滅んだ直後,宮司の姓を飯田に変えさせ東胤頼を名乗った。胤頼の子重胤は藤原定家に歌を学び,源実朝の側近に。1221年の承久の乱で三代目,胤行(妻は定家の孫)が岐阜県郡上市を加領された。
胤行は私の23代前の祖になる。次に訪問したのは千葉県香取市の芳泰寺で胤頼夫妻の墓があった。胤頼は京都で活躍して天皇と会見が出来る立場に居た。次は同じ香取市にある東氏の祈願寺の樹林寺を参拝して,香取神宮へも行き,最後は茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮へ。たまたま鹿嶋市に住んでいる池田敬世氏が来てくれたので一緒に参拝した。彼の母は私の父の姉であるが,岡山藩士池田家に嫁いでおり本籍は岡山城。岡山城の創築者は宇喜多直家だが,その弟の子の,宇喜多(坂崎)直盛の末裔が私の曾祖母である。鹿島神宮の鹿が御神体を載せて奈良の春日大社へ1年かけて運んで来たといわれるが,お供をしてきた中臣秀行の末裔であろう春日大社の大東氏や,鹿島神宮の東俊二郎権宮司とはお話をしたことがある。大東市の東家は徳川幕府に200両寄付したときに大の一字を頂き大東家としたが,春日大社の大東家は分家した時に大の一字を付けて大東家としたのではないかということであった。(続く)
翌,11/1は千葉県浦安市のホテル舞浜ユーラシアで,高崎経済大学時代のゼミの仲間が集う難波田会が開催されるので,早朝,京都を出て千葉市中央区にある亥鼻城跡に向かった。階段を上がり亥鼻城の石碑の前に行ったら,1匹の猫が出迎えてくれた。カメラを向けたら仰向けにひっくり返り手招きをした。猫について2分ほど歩いて行くと,何と,そこには,我が祖,千葉常胤の銅像が有ったので吃驚した。午後からは,近くの千葉神社妙見本宮(高崎市の妙見社から勧請した神社)・千葉神社尊星殿・千葉天神・出世弁天社等を参拝したが,弁天社の前にも千葉常胤の像が置かれていた。
今回の難波田会の幹事は,群馬県出身で浦安市に住む青木豊君だ。彼はNPO法人ゆい思い出工房の理事長をしていて写真展などいろいろ活動しているが,その中に「ゆい偉人館」があり,偉人や著名人をネットで紹介している。2017年には青木君に頼まれて,「真田幸村」の後編を書いて届けたことがあった。その時は,橋本市高野口町に住んで居た学友の井関秀真剣士と,オープンしたばかりの真田ミュジアムを訪問して一緒に写した写真も掲載頂いた。2023年には我が祖「千葉常胤」の執筆を依頼されたので喜んで引き受けた。青木君は「鎌倉幕府と千葉の礎を築いた立役者千葉常胤」というタイトルで本にもしてくれ,神谷俊一千葉市長や熊谷俊人千葉県知事達にも贈呈してくれた。スマホのグーグルに「ゆい偉人館 千葉常胤」と入力して,出てくる表紙の右上の「GoTo PC版」をクリックすれば,私の書いた記事の全文が読める。
2026年6月は千葉常重が亥鼻付近に本拠を移した、千葉開府900年にあたる。
1/2の朝は青木豊君と大谷武彦君とホテルの屋上で富士山を背景に写真を撮った。 大谷君は同期の青木君とも親しく,世田谷に住んで飛島建設退職後も多方面で活躍している。彼は愛知県の高校を出ているが,出身は私と同じ奈良県吉野方面だと聞くので親近感がある。朝食を済ませてから,私は同級生の杉浦捷之・村松武巳・早川敏章・豊沢淳一君たちと,大学の恩師,難波田春夫先生のお墓参りに出かけた。
先生は1991年に85歳で亡くなっておられるので没後19年になっていた。先生のお墓は東京都あきる野市の西多磨霊園にあるが,グーグルに「まいり 難波田春夫」と入力すれば関連情報がある。お墓参りを済ませた後, 私は一人で近くの青梅市に向かった。ここには親戚の半田絢子(旧姓岡本)さんが住んで居られた。木津川市から西吉野の柿畑へ週2回程行って,学友や社友達と富有柿栽培を楽しんでいたが,毎回通る道際の山口家から祖父の弟家へ嫁に来ている過去帳が記憶にあった。寺に立ち寄り聞こうとするが,個人情報は教えられないという。仕方なく墓石を探したら,赤い文字で建立者の名前が見つかった。聞いて回ると,山口家は現在,堺市に転居して病院を経営していると教えてくれた。病院へ手紙を出して1か月ほどしたら,「生きてるよ」と,99歳の絢子さんから電話が有って吃驚,90歳からPCを始めたという青梅市に一人で住む絢子さんに今回初めてお会いした。紙面に限りがあるので,その素晴らしい出会いはここでは省略。その夜は,息子の住む音羽のマンションに泊り,翌日は,一緒に鹿島神宮方面に向かう。最初に訪問したのは千葉県東庄町の東大社。千葉常胤の六男,胤頼から始まる。1185年の壇ノ浦戦いで平氏が滅んだ直後,宮司の姓を飯田に変えさせ東胤頼を名乗った。胤頼の子重胤は藤原定家に歌を学び,源実朝の側近に。1221年の承久の乱で三代目,胤行(妻は定家の孫)が岐阜県郡上市を加領された。
胤行は私の23代前の祖になる。次に訪問したのは千葉県香取市の芳泰寺で胤頼夫妻の墓があった。胤頼は京都で活躍して天皇と会見が出来る立場に居た。次は同じ香取市にある東氏の祈願寺の樹林寺を参拝して,香取神宮へも行き,最後は茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮へ。たまたま鹿嶋市に住んでいる池田敬世氏が来てくれたので一緒に参拝した。彼の母は私の父の姉であるが,岡山藩士池田家に嫁いでおり本籍は岡山城。岡山城の創築者は宇喜多直家だが,その弟の子の,宇喜多(坂崎)直盛の末裔が私の曾祖母である。鹿島神宮の鹿が御神体を載せて奈良の春日大社へ1年かけて運んで来たといわれるが,お供をしてきた中臣秀行の末裔であろう春日大社の大東氏や,鹿島神宮の東俊二郎権宮司とはお話をしたことがある。大東市の東家は徳川幕府に200両寄付したときに大の一字を頂き大東家としたが,春日大社の大東家は分家した時に大の一字を付けて大東家としたのではないかということであった。(続く)