本物語
第85号 2026.7.25
宮沢賢治「生誕130周年」の機会に思うことども
小西 忠人
岩手県北上市
宮沢賢治生誕130周年。花巻市をはじめ宮沢賢治記念館,宮沢賢治イーハトーブ館といった関連施設では多彩なイベントが目白押しで,中でも同市主催の「第5回国際研究大会」が11月1~3日,年が明けて2月20日には「宮沢賢治創造芸術公演」,3月6日には「賢治のチェロとトシのヴァイオリンで奏でる弦楽四重奏」が続いていく。県内に点在する賢治ゆかりの地からも,さまざまなイベント情報が聞こえてくる。
比叡山延暦寺でも「賢治ゆかりの地」として足を運ぶ賢治ファンも多いことと思う。父と共に伊勢,奈良,京都の関西旅行で延暦寺を参詣し,賢治がそこで詠んだ「根本中堂 ねがはくは 妙法如来 正徧知 大師のみ旨 成らしめたまへ」の歌が根本中堂入り口後方に昭和32年9月21日,賢治25回忌に歌碑として建立され,その歌碑の前で毎年,延暦寺による賢治忌の法要が「関西宮沢賢治の会」会員らを中心に営まれている。今は故人となられた賢治の実弟,清六さんが参列されていたという。
そんなことから延暦寺は私の在阪時代の懐かしい思い出で,平成7年の秋ごろだったか,第2代目同会長の平澤農一さん(東和町土沢出身,現花巻市。平成16年3月逝去,享年93)によって,会(昭和40年設立)の目的や賢治忌法要に参列していることを知った。平澤さん自身は,その会の設立後に機関誌「雨ニモマケズ」を10年近くも発行し続けるなど熱烈な賢治信奉者で,会員からは学究肌の人とも称されていた。平澤さんはまた,平成8年の「賢治生誕100周年」記念事業に当たって小林隆彰延暦寺大僧正=当時=(令和5年10月逝去,95)を支え,生誕100年目の法要,賢治父子の延暦寺参詣記念銘板の除幕式,座談会など一連の事業成功へ尽力されたと聞いた。
話は前後するが,父子で延暦寺を参詣した背景については各位ご承知の通り,浄土真宗の篤志家の父と,妙法蓮華経を精神的支柱とする賢治との“宗教論争”。こうした背景のもとでの比叡山延暦寺参詣は日本仏教の「母山」, いわゆる宗派を超えた共通の“ルーツ”を訪ねることだったといわれている。平澤さんが言っていた。「ここ(延暦寺)に来てから猛烈な勢いで(童話を)書くんだね、心が晴れたからなんでしょう。父にしても―」。確かこんな話だったが,その一つ一つの話が私には新鮮だった。
旅行後の賢治は父と別れて東京に残るも,妹トシの病気の知らせで帰郷した時のトランクには「どんぐりと山猫」「烏の北斗七星」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊りのはじまり」「山男の四月」など「注文の多い料理店」所収の9篇が既に在京時代に出来上がっていたとされる。そこには平澤さんが語ったごとくの「猛烈な勢い」というものが,法華経の行者としての活動がいよいよ活発になっていく―それがこうして,誰もが思いもつかない賢治の手法,賢治独自の心象世界へ―とそう思えてくる。
であれば,ジャンルを問わずどれだけ書かれて,どれだけの「量」に? 賢治ファンや研究家からは、単なる数字遊びで薄っぺらな“賢治観”が一体何を、とのお叱りもごもっともことながら興味が湧く。37年という短い生涯で書き残したその「量」が今ふれた信仰に生きる賢治の姿にどうしても重なってしまうからだ。で,長い間“置物”然の「新修宮沢賢治全集」(筑摩書房全16巻・昭和55年発行)を開いて見た。
生前に出版された「心象スケッチ・春と修羅」第1集から第2・第3集と続いて,詩,ノート,春と修羅・詩稿補遺,冬のスケッチ,そして生前発表の童謡,歌曲,文語詩稿,文語詩未定稿,エスペラント詩稿がざっと800篇。前述の「注文の多い料理店」所収9編の後に刊行された童話が約100編。全集第1巻に丸々収録される短歌,俳句・連句約1,000首。これに初期の短編,戯曲,農民芸術概論(綱要),手帳やメモ,羅須地人協会関係稿,東北砕石工場関係稿,応請原稿,法華堂建立勧進文,これに類した配布用経典印刷物,摂折御文・僧俗御判。教材用の絵図40点,花壇設計4点と高等数学公式集などなど。これが私の“直面”した,この人賢治が成された「量」だった。今はこれ以上の「量」だとは思うが,しかしこの「量」は,終戦直前の花巻空襲に清六さんが守った多くの遺稿,遺品類の「量」でもあると私には映ってくる。
とても人間わざとは思えぬ賢治の「永訣の朝」をこの機会に読んだ。「けふのうちに とほくへいってしまふわたしのいもうとよ…(あめゆじゆとてちてけんじや)―」,賢治兄さん,みぞれをお椀に取って下さい―と自分にせがんでいる妹が今もそばにいる―。その敬愛するトシの「兄さん」は,文学者から農芸化学者から地質学者から学校の先生から農村の指導者から活動されながらも,愛用の手帳には「ジブンヲカンジョウニイレズ…ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」―。これを各位はどう受け止めていることだろうか。
生誕130周年の節目の機会にこんな話になってしまった。はるかかなたの銀河系で口癖だったという賢治さん,「こりゃこりゃ」と苦笑いでもされていようか―。
比叡山延暦寺でも「賢治ゆかりの地」として足を運ぶ賢治ファンも多いことと思う。父と共に伊勢,奈良,京都の関西旅行で延暦寺を参詣し,賢治がそこで詠んだ「根本中堂 ねがはくは 妙法如来 正徧知 大師のみ旨 成らしめたまへ」の歌が根本中堂入り口後方に昭和32年9月21日,賢治25回忌に歌碑として建立され,その歌碑の前で毎年,延暦寺による賢治忌の法要が「関西宮沢賢治の会」会員らを中心に営まれている。今は故人となられた賢治の実弟,清六さんが参列されていたという。
そんなことから延暦寺は私の在阪時代の懐かしい思い出で,平成7年の秋ごろだったか,第2代目同会長の平澤農一さん(東和町土沢出身,現花巻市。平成16年3月逝去,享年93)によって,会(昭和40年設立)の目的や賢治忌法要に参列していることを知った。平澤さん自身は,その会の設立後に機関誌「雨ニモマケズ」を10年近くも発行し続けるなど熱烈な賢治信奉者で,会員からは学究肌の人とも称されていた。平澤さんはまた,平成8年の「賢治生誕100周年」記念事業に当たって小林隆彰延暦寺大僧正=当時=(令和5年10月逝去,95)を支え,生誕100年目の法要,賢治父子の延暦寺参詣記念銘板の除幕式,座談会など一連の事業成功へ尽力されたと聞いた。
話は前後するが,父子で延暦寺を参詣した背景については各位ご承知の通り,浄土真宗の篤志家の父と,妙法蓮華経を精神的支柱とする賢治との“宗教論争”。こうした背景のもとでの比叡山延暦寺参詣は日本仏教の「母山」, いわゆる宗派を超えた共通の“ルーツ”を訪ねることだったといわれている。平澤さんが言っていた。「ここ(延暦寺)に来てから猛烈な勢いで(童話を)書くんだね、心が晴れたからなんでしょう。父にしても―」。確かこんな話だったが,その一つ一つの話が私には新鮮だった。
旅行後の賢治は父と別れて東京に残るも,妹トシの病気の知らせで帰郷した時のトランクには「どんぐりと山猫」「烏の北斗七星」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊りのはじまり」「山男の四月」など「注文の多い料理店」所収の9篇が既に在京時代に出来上がっていたとされる。そこには平澤さんが語ったごとくの「猛烈な勢い」というものが,法華経の行者としての活動がいよいよ活発になっていく―それがこうして,誰もが思いもつかない賢治の手法,賢治独自の心象世界へ―とそう思えてくる。
であれば,ジャンルを問わずどれだけ書かれて,どれだけの「量」に? 賢治ファンや研究家からは、単なる数字遊びで薄っぺらな“賢治観”が一体何を、とのお叱りもごもっともことながら興味が湧く。37年という短い生涯で書き残したその「量」が今ふれた信仰に生きる賢治の姿にどうしても重なってしまうからだ。で,長い間“置物”然の「新修宮沢賢治全集」(筑摩書房全16巻・昭和55年発行)を開いて見た。
生前に出版された「心象スケッチ・春と修羅」第1集から第2・第3集と続いて,詩,ノート,春と修羅・詩稿補遺,冬のスケッチ,そして生前発表の童謡,歌曲,文語詩稿,文語詩未定稿,エスペラント詩稿がざっと800篇。前述の「注文の多い料理店」所収9編の後に刊行された童話が約100編。全集第1巻に丸々収録される短歌,俳句・連句約1,000首。これに初期の短編,戯曲,農民芸術概論(綱要),手帳やメモ,羅須地人協会関係稿,東北砕石工場関係稿,応請原稿,法華堂建立勧進文,これに類した配布用経典印刷物,摂折御文・僧俗御判。教材用の絵図40点,花壇設計4点と高等数学公式集などなど。これが私の“直面”した,この人賢治が成された「量」だった。今はこれ以上の「量」だとは思うが,しかしこの「量」は,終戦直前の花巻空襲に清六さんが守った多くの遺稿,遺品類の「量」でもあると私には映ってくる。
とても人間わざとは思えぬ賢治の「永訣の朝」をこの機会に読んだ。「けふのうちに とほくへいってしまふわたしのいもうとよ…(あめゆじゆとてちてけんじや)―」,賢治兄さん,みぞれをお椀に取って下さい―と自分にせがんでいる妹が今もそばにいる―。その敬愛するトシの「兄さん」は,文学者から農芸化学者から地質学者から学校の先生から農村の指導者から活動されながらも,愛用の手帳には「ジブンヲカンジョウニイレズ…ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」―。これを各位はどう受け止めていることだろうか。
生誕130周年の節目の機会にこんな話になってしまった。はるかかなたの銀河系で口癖だったという賢治さん,「こりゃこりゃ」と苦笑いでもされていようか―。