有限会社 三九出版 - 〈花物語〉 帰 り 花


















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                    〈花物語〉    帰 り 花

                           小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)

 「上(かみ)の家のお清さんにいいひとができたそうな。ほんに忘れ花のように……」 「ありゃ,狂い花だぞ。いい齢をして,いまさら男狂いでもなかろうに……」 ― 稚い日,わたしはそんな噂話をよく聞いた。
 忘れたころに咲くから「忘れ花」,時期はずれに咲くから「狂い花」ともいうが,もともとは春から夏にかけて咲く花が,たとえば桜や躑躅などが,小春日和の暖かい日に二度目の花を開くことを「帰り花」といったことに由来する異名である。(※1) 「忘れ花」といい「狂い花」といい,どちらにも暗さがつきまとう。まだ「世間様」という生活規範が生きていた時代 ― とくに男と女が世間の思惑をはずれた行動をとると,これらの言葉を冠せられ,恰好の標的にされた。
 太平洋戦争前の話である。わたしの町にひとりの若者がいた。子供のころから秀才といわれ,町の中学校のただひとりの東京帝国大学生となったが,入学二年目の秋に狂った(勉強のし過ぎが原因ともっぱらの噂だった)。おとなしい性格で,町のみんなに愛された。
 「狂い花」が時節はずれの花をいうなら,かれは凡庸な人間ぞろいの当時の田舎町で,ただひとり神の領域にはずれた「狂い花」だった。そして言葉どおり狂って死んだ。そしていま,老人の私に「帰り花」は訪れない。まもなくわたしは平凡な死を死
ぬだろう。 「夢に似てうつゝも白し帰り
花」。(※2)たぶん帳尻は合っている。

 ※1 『合本俳句歳時記/第三版/角川書店』
 ※2 「夢に似て……」(大島蓼太/「山本健吉『基本季語五〇〇選』講談社
学術文庫)


               

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