有限会社 三九出版 - 私と3.11


















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☆東日本大震災☆

                        私と3.11


                            星 永揚(埼玉県さいたま市) 
                            

 早いものであの千年に一度と言われた大震災から間もなく4年,今も思い返すと,えも言われぬ恐怖感に襲われたあの時の状況が昨日の事のように思い出される。そして,不幸にして災害に遭われた地域の皆様の引き続くご苦労に思いを寄せる時,遅々として進まぬ復興の現状にやり場のない憤りさえ感じるのである。
 私の実家は仙台市に隣接する多賀城市八幡,「契りきな……末の松山波越さじとは」と百人一首にも詠まれた「末の松山」の麓,仙台港からも直線で2キロ弱の距離にある。その日,私はさいたま市の自宅でテレビを見ていた。突然,家全体を突き上げるような衝撃と激しい揺れに襲われ,一瞬,「家が倒壊するのでは……」との恐怖に駆られ,庭に面した戸を開け収まりを待った。続く余震もかなりの強さだったが,幸い食器棚の皿が数枚割れた程度の被害で済んだ。「震源地は宮城県沖の太平洋,宮城・岩手両県沿岸を中心に津波による死者を含む甚大な被害発生」とのテレビ報道に我に返り,すぐ兄夫婦の住む実家に電話をしたが全く繋がらなかった。仙台港に隣接する石油コンビナート火災や被災地の生々しい映像に一層不安が募り,最悪の状況も覚悟した。その晩と翌日,私は各地の親族・知人からの安否問い合わせ対応に終始した。
 震災三日目の13日,仙台市は地域によってメイル・携帯・電話が繋がるようになり,断片的な状況確認ができるようになった。兄の無事を携帯で確認したのは五日目15日になってからだった。「地震当日,末の松山の菩提寺で母の13回忌(母の命日,3月11日)を営んでいる最中に地震が発生,津波警報に続く避難指示で寺近くの高台にある公民館に避難した。直後に,一帯に2メートル近くの津波が襲来,貞観地震(869年)を上回る津波だったが波は今回も末の松山を越えることはなかった。その日は避難所に一泊,水の引いた翌日帰宅した。家屋流出等の被害はなかったものの,ゴミ・瓦礫の散乱する大変な状況,前後で3名の方が亡くなられた」と言うものだった。それにしても,震災の一か月前,所用で実家に立ち寄った時の兄の一言「霊前の母と相談したが13回忌は自分達だけでやることにした」で津波に遭わなかった私。家が心配になり避難先から様子見に戻り亡くなられた前家のご主人。人の運命の不条理さに呆然とするばかりだった。私の幸運は単なる偶然か,兄の言うように亡き母が護ってくれたのか,あまりの符合に今でも不思議に思っている。
 津波に関してもう一つ忘れられない悲劇がある。仙台の東北支社で一緒に勤務した後輩女子社員の事である。結婚して首都圏に住んでいた彼女は,仙台で病気入院中の父親を見舞った。10日夜に帰宅予定だったが,父親の「久しぶりなのでもう一晩ゆっくりしていけ」との勧めに従い東松島市の自宅に戻り津波の犠牲となった。お母様と一緒に発見されたのは一週間後だったとのこと。通夜の席では,人一倍親思いだった彼女の心根を思うと涙が止まらず,ただただご冥福をお祈りするだけだった。
 震災直後,被災地には全国から多数のボランティアの方々が支援に駆けつけ,瓦礫処理等で地域の大きな支えになったと聞く。有り難いことであった。私も折を見て帰省しては復興状況を見ているが,多賀城近辺は津波被害が少なかったこともありかなりの進展が見られる。一方,津波で壊滅的な痛手を負った宮城・岩手の沿岸地域の復興は緒に就いたばかりであり,時折ユーチューブ等で見ても遅れは一目瞭然である。中でも,陸前高田・大船渡・釜石・宮古等はかつて仕事で20年近く訪問していただけに知人も多く,被災地域の荒涼とした光景を見るにつけかつての賑わいとの落差の大きさに心が痛む。一日も早い復興を心から願わずにはいられない。
 進められている復興活動を巡る状況の中で一つ心配なことがある。私を含めた日本人共通の性癖「のど元過ぎれば……」に起因する「震災記憶の風化」である。被災地の人々は現在も日々必死にもがいている。原発災害で今なお避難を強いられている福島県沿岸部の人びとの存在をよそに,「アンダーコントロール下にある」「安全性の基準はクリアしている」とし経済優先で再稼働への動きを加速させるなどはその最たるものである。今回の震災で我々は多大な犠牲と引き換えに多くの教訓を学んだ。この遺産を風化させず後世に引き継ぐことは,今に生きる私達の責務でもある。被害の大きかった宮城・福島両県で震災遺物の収集・保存の動きがあると聞くが風化を防ぐ有効な手立ての一つと思う。ある新聞に,「復興は,自助・共助(地域の連携)・公助(国の支援)のトライアングルでの取り組みが不可欠」との記事があった。正に同感である。被害の大きかった地域の復興にはまだまだ年月がかかる。地震列島に住む私達は今回の大震災を過去のものや他人事とせず,それぞれの立場で教訓の伝承と万一の備え,被災地支援の意識とアクションを持ち続けなければならないと考えている。





 
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