有限会社 三九出版 - 〔ミニミニ自分史〕  『親不孝の思い出』


















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        『親不孝の思い出』

          南條 信郎(千葉県習志野市)

 昭和20年1月4日,私は豊橋第二陸軍予備士官学校の営庭にいた。1月4日は軍人勅諭の下賜された日で,軍隊ではその奉読式がある。軍人勅諭とは明治天皇が大元帥として陸海軍軍人に対して訓戒を述べた勅諭で,「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある……」で始まり,「一っ,軍人は忠節を尽すを本分とすべし」以下の五ヵ条(忠節,礼儀,武勇,信義,質素)に連なる教えである。この式は言うなれば部隊の御用初めの式である。我々特別甲種幹部候補生(略称「特甲幹」,学生出身者を8カ月で第一線小隊長に仕立て上げるコース)は通常の演習用の衣服とは別の,上装衣袴(儀式用軍衣)を着て整列していた。そして実は,この式の後,我々は10月に入校したときの伍長(金筋に星一つ)の位から軍曹(同星二つ)に進級することが予定されている。そこには年の初めの緊張とある種の晴れがましさがあった。
 その時,区隊付きの曹長が私のところに寄って来て「南條候補生は区隊長のもとへ」と言う。何事ならんと区隊長室へ行くと,区隊長は黙って一通の電報を手渡してくれた。「チチシス,カズコ」。電文はそれだけ,姉からである。がんと頭を打たれたような衝撃を受けた。それ以上の事情は何も分からないまま,許可を得て仙台の実家へ帰った。
 列車を乗り継いで仙台に着いたのは翌日の朝だった。家に着いて早速父と対面した。髪が白くなったように思うが面貌にそれほどの衰えは見えない。
 私は男4人,女1人の5人兄弟で,男は私を含め4人とも軍隊にとられ,姉が一人で両親を看ていた。姉の話によると,父は暮の30日に,農業を継いでいる実家の兄の家に米を調達に出かけたが,その時雪の中を歩いて風邪をひき,それが肺炎を引き起こして床に就いた。医者が診察して,葡萄糖の注射が良いのだが,と言うので姉が漸く薬屋を探して「病人は何歳?」ときかれたので「66歳」と答えたところ,勿体ない,と言って売ってもらえなかったという。悔しかった。と同時に,私はこれまで何一つ親孝行らしいことをしてこなかったことが猛烈に悔やまれた。父はこれまでほとんど病気をしたことも無かった。それが床に就いて5日目に亡くなってしまうとは。
 その日の内に,次兄が札幌の部隊から,また弟が所沢の予科士官学校から相次いで帰ってきた。北支戦線にいる長兄には敢えて知らせないことにした。
 その翌日,遺体を火葬場に運んで茶毘に付した。我々が大八車を引いて運んだ。そして遺体を焼く薪も我々が調達して持参しなければならなかった。
 現在の火葬場とは異なり,遺骨を受け取るのは次の日である。翌日,遺骨となった父の遺体の前に立った私には一つの期待(?)があった。遺骨を骨壷に収容しながら注意していると,果たせるかな,それらしきものがあった。一センチ弱の黒い金属の固まりである。
 父は我々子供たちにあまり自分のことを語る人ではなかったが,唯一,父が語る自慢話があった。明治37年,日露戦争の時,父は乃木大将の第三軍に工兵少尉として従軍し,かの旅順港二〇三高地の攻撃に参加した。工兵隊は敵の要塞を爆破すべく地下壕を掘り進めたが,その作戦中に敵の地雷が破裂して父は名誉の負傷をした。「そのときのロスケ(不適切な表現であるが当時の軍人の中で実際に使われていたことであり父の言葉をそのまま著すことにした。他意はない。)の弾丸(たま)が体の中に入っている」というのが父の語り草だった。その時の手柄により,父は金鵄勲章功五級を拝受し,また中尉に進級した。
 わが家の天井裏に細長い木箱が置いてあった。父の従軍記念品が入れてあった。箱の中には,この金鵄勲章のほかに,潰れて鞘から抜けぬままの己の軍刀や,もう一本戦利品の敵の軍刀,毛の飾りのついた軍帽などが入っていた。年に一度,三月十日の陸軍記念日には,この箱を開けて子供らに二〇三高地攻撃の話をする父であった。
 今,灰の中の黒い鉄片は父の言っていた「ロスケ(上記の断り書きと同じ)の弾丸」のかけらに違いない。一緒に骨壷に納めて持ち帰った。
 私は父の齢を越えて生きること既に二十年。考えれば考えるほど,私は父には申し訳のないままに終わってしまった。学生時代にもあまり心を割って話をしたことがなかった。学業半ばに出陣することになっても,国に殉ずることだけを集中して考えていて,父母のことに考え及ばなかった。入営のため豊橋に向けて発つ日も,仲間の学生たちとのストームの渦に巻き込まれて,家族と別れを惜しむ余裕もなかった。駅頭で父はどんなに寂しかっただろう。
 その年7月,仙台空襲でわが家は全焼し,8月には日本の敗戦,仙台の街にも米軍が進駐してきてわがもの顔に闊歩していた。日露の役の勇者である父が,あの惨めな風景を見る前に去っていったのがせめてもの幸せだったというべきなのだろうか。
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