☆《自由広場》
○「天誅組の変」こぼれ話○
奈良県五條市本陣交差点の道しるべ ⑴
岡本 崇(京都府木津川市)
五條市の中央部には,「本陣」という表示の交差点がある。五條市西吉野町から木津川市に帰る時,この交差点で信号待ちをすると,下辻家の前にある,2mを超す昔の大きな石柱の「道しるべ」が目につく。江戸時代(1855年)に設置された時は,もう少し北の桜井寺寄りの,紙屋(下辻)又市家の前にあった物を移設したらしい。幅3m弱だった国道168号線は,昭和36年頃に14mに拡幅され江戸時代の面影はない。「本陣交差点」の名は1863年,天誅組が桜井寺に本陣を置いたことに由来するが,「道しるべ」が建てられたのは「天誅組の変」の8年前である。この「道しるべ」の両面に名前が刻まれている人々の多くもまた,「天誅組の変」と無縁ではなかった。
〈道しるべの解読文〉
東側面 …左 かうや道 わか山道 四国道 くまの道
南側面 …右 いせ道 はせ なら道 大峯山上道 よしの道
西側面 …平国土安穏(へいこくどあんのん) 明五穀成就(めいごこくじょうじゅ) (=国土安穏を平らかにし、五穀成就を明らかにせん/頭の2文字を取って「平明」と読めば,夜明けを指すので,維新と解せなくもない。)江戸日本橋 山本嘉兵衛・和歌山湊 升屋市郎左ヱ門・和州上之村 桜本増右ヱ門・同二見村 堀内重左ヱ門・同霊安寺村 山田久輔・同霊安寺村 山田又右ヱ門
北側面 …紙屋又市老人は霊安寺村人にして、姓は山田氏、幼くして下辻氏の義子(ぎし)となり、その家を襲ぎ五條村に住む。今ここに一碑を建て、旅客をして道路に迷わざらしめんと欲す。日びに心を通わせる親族・故旧(古い知り合い)共(ども)に貲(たから)を損なはんことを慫(すす)め、以ってその志を成す。老人(紙屋又市)と余(私・金芝山人林辰)と好みを交え、属(たまたま)余その事を紀(しる)す。 安政二年乙卯(1855年きのとう) 金芝山人林辰、識(しる)す
和州野原村 中村甚右ヱ門・同霊安寺村 芳田治左ヱ門・同霊安寺村 岡田重右ヱ門・同霊安寺村 山田藤右ヱ門・同五條村北之町 紙屋又市・同五條村北之町 分家(紙屋)又七・石工(いしく)五條村 弥兵衛
〈道しるべ建立に協賛した人々〉
①山本嘉兵衛 …㈱山本山の創業は1690年。初代山本嘉兵衛が宇治から江戸に出店し,お茶や紙類を商った。1855年は,6代目山本嘉兵衛徳翁が「狂歌茶器財画像集」という本を発行。徳翁は彼の父・徳潤の「煎茶小述」〈1835年〉,「煎茶手引之種」(1848年)等も出版している。西吉野町西新子の岡本芳太郎が20歳の時(1885年)に,徳潤と改名しているのは偶然だろうか。紙屋(下辻)家と山本家は,十津川村や吉野郡内の紙やお茶などの取引仲間だったのであろう。
②升屋市郎左ヱ門 …和歌山湊の人。1838年の資産家地主総覧には「ミナト 升屋市良右ヱ門 」という名前がある。湊には吉野材を扱う材木問屋が多くあったので材木問屋か廻船問屋だろうか。紀州藩の船と衝突した時,坂本龍馬が鞆の浦の升屋(苗字は桑田)に潜んでいたことは有名だが,和歌山と鞆の浦の升屋との関係は不詳。
③桜本増右ヱ門 …奈良県五條市上之村の人で芳田家と親戚。明治2年逝去。山林業。現在は農業だが「天誅組始末記」の著者,新城軍平と入魂。「天誅組」が観心寺から千早峠を越えて岡八幡宮に集結したが,その時に天誅組は上之村を通ったらしい。
④堀内重左ヱ門 …五條市二見の医者。清和源氏の末裔。霊安寺村の山田家とは親戚。現当主,堀内伸晃の5代前の人。重左ヱ門・仲良・質良と3代続いて医者であった。明治初期,堀内質良医師が馬に乗って往診する姿の掛軸が堀内家に残されている。
⑤山田久輔 …五條市霊安寺の人。芳田秀樹家の近くにある山田圭家の父は山田久太郎と云い,ご夫妻は共に五條高校等に勤務されていた。「昔の隠居さんの家」と呼ばれていたそうで, 仏壇等も維持してこられたので, この家を山田家の本家とも云うらしい。いずれにしてもこの家の先祖が山田久輔と思われる。
⑥山田又右ヱ門 …五條市霊安寺の人。御霊神社近くの山田又作の先祖。初代山田又右ヱ門(1851年寂)は山田本家から分家する前に,比叡山で修行して戒名は法師。年代的に見ると彼は2代目。「光明丹」という薬を販売していた看板も現存。この家から朝日を望む方向にある,銀峰山(白銀岳)中腹の西新子の「光明寺」と同じ「光明」なのが興味深い。光明寺といえば西新子の岡本家などで保存してきた光明寺の「如来立像」が,「国の重文」に指定されて奈良国立博物館に寄託展示されている。この仏はその昔,白銀岳波宝神社神宮寺にあって,神功皇后が新羅から持ち帰った念持仏と信じられていたが,8世紀統一新羅時代の仏像と認定された。 (以下次号)
○「天誅組の変」こぼれ話○
奈良県五條市本陣交差点の道しるべ ⑴
岡本 崇(京都府木津川市)
五條市の中央部には,「本陣」という表示の交差点がある。五條市西吉野町から木津川市に帰る時,この交差点で信号待ちをすると,下辻家の前にある,2mを超す昔の大きな石柱の「道しるべ」が目につく。江戸時代(1855年)に設置された時は,もう少し北の桜井寺寄りの,紙屋(下辻)又市家の前にあった物を移設したらしい。幅3m弱だった国道168号線は,昭和36年頃に14mに拡幅され江戸時代の面影はない。「本陣交差点」の名は1863年,天誅組が桜井寺に本陣を置いたことに由来するが,「道しるべ」が建てられたのは「天誅組の変」の8年前である。この「道しるべ」の両面に名前が刻まれている人々の多くもまた,「天誅組の変」と無縁ではなかった。
〈道しるべの解読文〉
東側面 …左 かうや道 わか山道 四国道 くまの道
南側面 …右 いせ道 はせ なら道 大峯山上道 よしの道
西側面 …平国土安穏(へいこくどあんのん) 明五穀成就(めいごこくじょうじゅ) (=国土安穏を平らかにし、五穀成就を明らかにせん/頭の2文字を取って「平明」と読めば,夜明けを指すので,維新と解せなくもない。)江戸日本橋 山本嘉兵衛・和歌山湊 升屋市郎左ヱ門・和州上之村 桜本増右ヱ門・同二見村 堀内重左ヱ門・同霊安寺村 山田久輔・同霊安寺村 山田又右ヱ門
北側面 …紙屋又市老人は霊安寺村人にして、姓は山田氏、幼くして下辻氏の義子(ぎし)となり、その家を襲ぎ五條村に住む。今ここに一碑を建て、旅客をして道路に迷わざらしめんと欲す。日びに心を通わせる親族・故旧(古い知り合い)共(ども)に貲(たから)を損なはんことを慫(すす)め、以ってその志を成す。老人(紙屋又市)と余(私・金芝山人林辰)と好みを交え、属(たまたま)余その事を紀(しる)す。 安政二年乙卯(1855年きのとう) 金芝山人林辰、識(しる)す
和州野原村 中村甚右ヱ門・同霊安寺村 芳田治左ヱ門・同霊安寺村 岡田重右ヱ門・同霊安寺村 山田藤右ヱ門・同五條村北之町 紙屋又市・同五條村北之町 分家(紙屋)又七・石工(いしく)五條村 弥兵衛
〈道しるべ建立に協賛した人々〉
①山本嘉兵衛 …㈱山本山の創業は1690年。初代山本嘉兵衛が宇治から江戸に出店し,お茶や紙類を商った。1855年は,6代目山本嘉兵衛徳翁が「狂歌茶器財画像集」という本を発行。徳翁は彼の父・徳潤の「煎茶小述」〈1835年〉,「煎茶手引之種」(1848年)等も出版している。西吉野町西新子の岡本芳太郎が20歳の時(1885年)に,徳潤と改名しているのは偶然だろうか。紙屋(下辻)家と山本家は,十津川村や吉野郡内の紙やお茶などの取引仲間だったのであろう。
②升屋市郎左ヱ門 …和歌山湊の人。1838年の資産家地主総覧には「ミナト 升屋市良右ヱ門 」という名前がある。湊には吉野材を扱う材木問屋が多くあったので材木問屋か廻船問屋だろうか。紀州藩の船と衝突した時,坂本龍馬が鞆の浦の升屋(苗字は桑田)に潜んでいたことは有名だが,和歌山と鞆の浦の升屋との関係は不詳。
③桜本増右ヱ門 …奈良県五條市上之村の人で芳田家と親戚。明治2年逝去。山林業。現在は農業だが「天誅組始末記」の著者,新城軍平と入魂。「天誅組」が観心寺から千早峠を越えて岡八幡宮に集結したが,その時に天誅組は上之村を通ったらしい。
④堀内重左ヱ門 …五條市二見の医者。清和源氏の末裔。霊安寺村の山田家とは親戚。現当主,堀内伸晃の5代前の人。重左ヱ門・仲良・質良と3代続いて医者であった。明治初期,堀内質良医師が馬に乗って往診する姿の掛軸が堀内家に残されている。
⑤山田久輔 …五條市霊安寺の人。芳田秀樹家の近くにある山田圭家の父は山田久太郎と云い,ご夫妻は共に五條高校等に勤務されていた。「昔の隠居さんの家」と呼ばれていたそうで, 仏壇等も維持してこられたので, この家を山田家の本家とも云うらしい。いずれにしてもこの家の先祖が山田久輔と思われる。
⑥山田又右ヱ門 …五條市霊安寺の人。御霊神社近くの山田又作の先祖。初代山田又右ヱ門(1851年寂)は山田本家から分家する前に,比叡山で修行して戒名は法師。年代的に見ると彼は2代目。「光明丹」という薬を販売していた看板も現存。この家から朝日を望む方向にある,銀峰山(白銀岳)中腹の西新子の「光明寺」と同じ「光明」なのが興味深い。光明寺といえば西新子の岡本家などで保存してきた光明寺の「如来立像」が,「国の重文」に指定されて奈良国立博物館に寄託展示されている。この仏はその昔,白銀岳波宝神社神宮寺にあって,神功皇后が新羅から持ち帰った念持仏と信じられていたが,8世紀統一新羅時代の仏像と認定された。 (以下次号)
投票数:55
平均点:10.00
秋 日 雑 感 |
本物語 |
日本人として生き,日本人として死んだ台湾の叔父 ⑴ |