有限会社 三九出版 - 〔自由広場〕     大地の子


















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〔自由広場〕      大地の子
            佐藤 誠之(岩手県一関市)

私は幼少時,北満の「佳(じゃ)木期(むす)」という所に住んでいた。そこには当時無敵を誇っていた山下奉文率いる関東軍の拠点があったので,日本人は威張って暮らしていた。
父はそこで病院を経営していたので,私は何不自由なく過ごしていた。
当時の日本は満州を掌握し,そこに「五族協和」「王道楽土」を建設するという理想を掲げ,満鉄を通して内地からどんどん人を移住させていた。
昭和16年12月,日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃免 初めのうちは連戦連勝,勝ち続けていた。その時軍部は「アメリカなんて口先ばかりの意気地なしで,日本人は男らしく口を出す前に手を出す。それが真珠湾だ!」とうそぶいていた。
日本軍の暴走に堪忍袋の緒が切れたアメリカは,イギリスとも同盟を結び目の色変えて反撃してきた。小さな島国の日本が,膨大な物量を誇る大国に太刀打ちできないのは目に見えていた。識者は「今度の戦争は,狂犬が二頭の象とケンカするようなもので,日本はやがて壊滅し,皆殺しにされるだろう」と予言していた。
その頃日本は南方にも戦線を展開していた。そちらの方にも兵力を配備せねばならず,又,本土防衛にも兵力が必要で,関東軍の戦力は四分の一にまで縮小されていた。しかし,この事を敵に知らせないために,満州在住の男子を根こそぎ動員して国境配備につかせ,頭数だけは揃えていた。男子を動員した後の留守家族はそのまゝ現地に留めて,国境線の弱体化をソ連や現地人に見せないようにしていた。いわゆる棄民政策がとられたのである。日本軍は「かかし」部隊を国境に配置し,留守家族は棄民として現地に留め,「日本は神の国,負ける筈がない」と戦意を鼓舞していた。
ところが,そんな事はソ連や現地人が知らない筈はない。日本帝国の敗北は,終戦の数年前から中国人達には確実な情報として流布されていた。心の中では「現地の日本人が軍部にだまされながら必勝を信じているのはかわいそうだったが,真相を教えるわけにはいかなかった」と当時の中国人はみんな思っていたという。
日本人は昔,中国人をいじめたと言われているが,棄民として残された我々があまりいじめられずに済んだのは「あなた達は何も悪くない。悪いのは軍部だ。我々は捨てられたあなた達に同情はするが,いじめたりはしない」という中国人の広い心のお蔭だと思っている。
終戦の少し前,ソ連は「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して攻め込んできた。
その時,関東軍は藻抜の殻,急造の兵隊,棄民達はソ連軍の進行の前に何の抵抗も出来ず,男子の殆どはシベリヤに抑留され,過酷な労働を強いられた。
中国には「没(メイ)法子(ファーズ)」という有名な言葉がある。これは,天災,戦乱,不治の病い等,自分の力ではどうしようもない出来事に遭遇した時,仕方がないと諦め自分を納得させる言葉だが,単なる諦めではなく「今に見ていろ」という執念のこもった言葉でもあるのだ。私達は逆境で何度も「メイファーズ」とつぶやきながら生き延びてきたのである。
終戦の時,我々一家は近くの開拓団に疎開していた。そこから逃避行が開始され,親父はシベリヤに抑留,我々は難民となって逃げ回っていたが,そのうちに一家離散,私はどこの誰かもわからない大人達に助けられながら長春迄たどり着き,そこで浮浪児となって筆舌に尽し難い苦労を体験した。その後偶然に親兄弟にも巡り合い,21年9月引揚列車に乗って親の郷里「花泉」に無事帰ってくることが出来た。
親父は岩手医専の一回生,お袋は2年遅れて津軽のリンゴ農家から盛岡日赤の看護学校に入学してきた。二人は「いとこ同士」だったが,やがて当時としては珍しい学生結婚をすることになる。親父は新天地を求め満州に飛んで開業した。初めは苦労したようだが後に大きな病院を経営する迄になった。5人の子宝にも恵まれ順風満帆のようにみえた。そんな時,お袋が最も恐れていた事態が発生した。昭和19年に生れた6番目の男の子は,両耳が醜く癒合している奇形児だったのである。お袋は自分達が「いとこ結婚」したために,こんな子供が生れてしまったと悩み,時々すゝり泣いていた。その子には「生(しょう)忍(にん)」という名前がつけられた。耐え忍んで生きるんだよ,という意味が込められていたように思う。生忍はやっと一息ついた長春で栄養失調に肺炎を合併,か細い泣き声をあげながら,哀れ一歳半の幼い命を閉じた。
その時お袋は,我が子をしっかり抱きしめ嗚咽(おえつ)した。そして「生忍,お前は親孝行だなあ。これで母ちゃん一生の重荷から解放されるよ」と言って,さめざめと泣いたのである。生忍の亡骸(なきがら)は野末の石の下に手厚く葬られた。
私は,赤い夕日の満州の事を一生忘れない。私は「大地の子」なのである
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