有限会社 三九出版 - [隠居のたわごと]       「聖書」と私


















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                     「聖書」と私
                         小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)

 小学生のころ,わたしはキリスト教会の日曜学校に行っていたことがある。日曜学校に行くようになった経緯はよくわからない。たぶん教会員だった母の影響だろう。わたしは日曜学校には行ったものの,クリスチャンにはならなかった。それどころか,いまはすっかり教会からも足が遠のいてしまった。しかし日曜学校のクリスマスの集いや,ときおり催されたバザーなどはいまでもはっきりと思い出すことができる。
 日曜学校に行っていたわたしにとって聖書はなじみ深いものだった。だが聖書が信仰の書であるという意味では,聖書とわたしのかかわりは正道から外れているといえるだろう。いまでもこころが疲れたときに聖書を読む習慣は残っているが,それは文学書を読むのに似ている。文学書がときにわれわれに慰藉をあたえるように,わたしが生きることに疲れて立ち竦んでいるとき,聖書の聖句はつねに適切な癒しをあたえてくれた。わたしは信仰薄き者 ― というより信仰を求めていまも彷徨っている者であるが,何かの折にふと,わたしは神の恩寵の中にある,と思うことがある。
 聖書が直接に関係するわけではないが,それに親しんだことで培われた〈感情〉とでもいうべきものが,ちょうど空中に張った糸が風に吹かれて鳴るように,思いがけぬ反応をおこしたことがある。一度目は〈言葉〉に,二度目は〈場面〉に ― 。
 まず〈言葉〉。それはルキノ・ヴィスコンティの映画『若者のすべて』のひとつの台詞である。貧しい一家が,イタリア南部のルカーニア(現在のバジリカータ)から大都会のミラノへ出てくる。三男ロッコの夢は,いつか一家でふたたび故郷に帰ること。そのために気が進まぬボクサーになる。「生贄が必要だからさ。家がしっかり建つように(大工の言い伝え)」というのがその理由だった。チャンピオンになる日も間近いある日,家族全員で,その日の試合に勝ったロッコの祝賀会をしていると,愛人である娼婦のナディアを殺した二男のシモーネが,逃亡のための金をもらいにやってくる。そのとき,ロッコが「神が裁かれるだろう」と叫ぶ。愛する兄を救えない悲しみと,掴みかけた一家の幸せへの階段が崩れていく絶望感からの叫びだ。のちに脚本(「若者のすべて」ヴィスコンティ秀作集・6/新書館)を読んでわかったことだが,叫んだのは母親で,しかもその言葉は,正しくは「私たちをこんな目にあわせるなんて,イエス・キリスト様も後悔なさるべきだ」というものであった。わたしの錯誤がなぜ生まれたのか,いまでも不思議である。いずれにしても,カトリックの国イタリアの映画のこの台詞は,わたしに衝撃をあたえた。その理由はわからない。考えられるとすれば,先に述べた「聖書に親しむことで培われた〈感情〉」からとでもいうほかはないだろう。
 つぎは〈場面〉。それは福音書のペテロがイエスを三度裏切る場面である。「イエス言ひ給ふ『まことに汝に告ぐ,今宵,鶏鳴く前に,なんぢ三たび我を否むべし』。ペテロ言ふ『我なんぢと共に死ぬべきことありとも汝を否まず』」。ひとりの婢女に,イエスの弟子であることを指摘されたペテロはたしかに三度否定する。それはイエスの予言の成就である。が,同時にそれはペテロの人間的な弱さを明らかにするものである。わたしはこの福音書の一節に〈信仰〉への鍵をみる。じっさいこの躓きから立ち直ったペテロは強靭な意志をもった伝道者となり,ローマにおいて殉教する。この福音書の神話は,わたしに〈信仰〉についてもうひとつの事例を思い出させる。
 それは『歎異抄』(岩波文庫)の,信心に惑いの出た東国の念仏信者たちが「往生極楽のみち」を訊ねたのに対して,親鸞が「信ずるほかに子細なきなり」といい,「このうへは,念仏をとりて信じたてまつらんとも,またすてんとも,面々の御はからひなり」と言い切る場面である。わたしはその言葉にペテロに対するイエスの予言と同じ〈信仰〉への鍵を見出す。つまり,「面々の御はからひ」とは信仰に至る〈覚悟〉の謂いである。言い換えれば,仏(神)を前にして自分の弱さを自覚すること,自分をのっぴきならない場所に置くこと ― それが「面々の御はからひ」の内容である。それはペテロの躓きと同様の過酷さをもってわれわれに迫る。もちろん,根源のところで弥陀の本願(神の召命)に支えられているのはいうまでもないことだが ― 。
 だいぶ前になるが,『考える人』(2010年春号/新潮社刊)に載った,梨本香歩の「人が世になしうること」というエッセイを読んだときに,『砂漠の師父の言葉』(和泉書院館刊)という本を知った。そしてそこに引用されていた,「師父ザカリアが息を引き取ろうとしていたとき,師父モーゼが『何か見えるか』と尋ねた。ザカリアは言った。『父よ,黙っていた方がよくはないでしょうか』すると師父は言った。『子よ,その通りだ。黙っていなさい』」という言葉に感動した。原本を読んでいないので軽率なことはいえないが,そこで語られているのは〈畏怖〉と〈敬虔〉である。わたしは同時に,かつて読んだヴィトゲンシュタインの『論理哲学論』(中公クラシック)の言葉 ― 「語りえぬことについては,沈黙しなくてはならない」を思い出した。信仰のない者が,信仰にかかわる問題を云々することは慎まなければならない。それはただの〈傲慢〉にすぎないからだ。だからわたしは〈空中の張り糸〉を回収し,沈黙しなければならない。



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