有限会社 三九出版 - 《自由広場》     薩摩島津家と永吉南郷会の活動


















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                 薩摩島津家と永吉南郷会の活動
                         本田 哲郎(鹿児島県日置市)

 鹿児島県を中心にした統治者としての島津家の登場は鎌倉時代に遡る。島津家初代の島津忠久は1185年に鎌倉幕府から薩摩大隅の守護職として赴いている。その後,島津一族は鹿児島のほかに日向の一部もその勢力に入れて江戸時代の終わりまで,なんと800年近い支配体制を構築してきた。当初鹿児島においても各地で豪族が支配していたが,それらや島津家内部の抗争を含め,江戸時代が始まる前には彼の地を平定統一して77万石の雄藩として発展・統治してきた。
 島津家の統治の根底にあるのは,徹底した一族支配で,島津家を中心に血族で固めた4家(加治木,重富,垂水,今和泉島津家)の本家筋と16家の「一所持ち」の分家筋(永吉島津家など)の島津一族と90以上の「地頭」(現在で言う転勤族管理者)などが強い絆で連携を図りながら領内を統治管理してきた。小生の故郷である永吉地区は「永吉島津家」として江戸時代初めから島津家の分家でありながら,「佐土原藩」の本家として連綿と現在まで18代の当主が続いている。(もちろん明治以降は廃藩置県により一族の統治支配は終了しているが。)
 永吉島津家の初代当主は豊臣秀吉の時代の島津4兄弟(義久,義弘,歳久,家久)の末っ子である島津家久(串木野城主から佐土原藩主)であり,2代目が島津豊久である。島津家久は1580年代には島津本家の九州制覇の一環として,島原半島の沖田畷の戦い(龍造寺隆信)あ大分県の戸別川の戦い(大友宗麟や長曽我部・十河軍など)でこれらの相手方を「野伏戦法」などで一蹴して島津家の先兵としての輝かしい戦績を挙げてきた。最終的には豊臣秀吉軍(30万人)の攻勢に下り,島津家は元の薩摩・大隅・日向の三州に落ち着き,豊臣政権から安堵されている。
 その時家久は佐土原藩主であったが,病のため急逝した。その嫡男豊久は伯父の島津義弘に従って関ケ原の戦いに参加したが,義弘は豊臣家に対する恩義もあり,また以前から徳川家康の眼力と実力を予見していたことで,関ケ原では合戦の現場に居たものの東西合戦そのものには一切手出しせずにいた。
 関ケ原合戦は一日にして圧倒的に東軍(徳川軍)が勝利した。 1200人の島津義久を大将とする薩摩軍は徳川勢の井伊,松平,本多などの迫撃を受けたが,当時薩摩17代当主でもあった義弘をなんとしても無事で鹿児島に帰還させる必要(当主が後継者も決められず他界した時はお家取り潰しの運命 ― 赤穂(藩)浪士と同じ)があり,副将の義弘の甥子の豊久,阿多長寿院盛厚(義弘の家老)などが「敵中突破」を敢行して,死を恐れず戦い,義弘を故郷に逃げ帰らせたのである。
 当時,島津豊久は父家久から佐土原藩主を引き継いでいたが,豊久が死亡したことにより,佐土原藩は徳川勢によってお家取り潰しとなった。豊久の家臣団の落ち着き先として,佐土原を後に永吉を中心に流れてきたのである。
 したがって,永吉には今も初代領主として島津家久の墓(梅天寺跡)があり,2代目島津豊久以下16代当主までの当主並びに令室などの墓所(天昌寺跡)などが存在する。その墓所などの維持管理などを主体として,今の「永吉南郷会」という民間団体があり,その会長を今は小生が仰せつかっている。薩摩藩には江戸時代から社会教育の一環として,先ほど述べた支配区域(薩摩では外城制度という)ごとに,「オセ(成人)がニセ(18歳以下の子供)を教育する」という「郷中教育」が盛んに行われてきた。明治維新の功労者である西郷や大久保や大山などはまさに幼い頃から鹿児島市の加治屋町方限の郷中教育を受けて育った逸材である。当地にも古くからこの郷中教育である「精研舎」という組織が戦前まであったが,昭和の30年代になってその趣旨を生かした形で,「永吉南郷会」という史談会的な組織が作られたのである。この会は,永吉島津家を頂点とする先人の遺徳を偲び継承し,地元の活性化を図り,永吉島津家の墓所や南郷城跡などの清掃管理を行い,青少年の健全育成を図るため,建国記念日大会をはじめ毎年2回の青少年剣道大会を主催している。今年も近在の小中学生30チームの参加を得て,第41回目を実施した。島津家墓所などの清掃なども年に5回ほど会員のボランティア作業で行っている。また,歴史研修会や研修旅行なども毎年実施しており,上述の初代家久,2代豊久の戦績跡など(島原半島の沖田畷,大分の戸別川,「敵中突破」の岐阜県大垣市上石津町など)も研修旅行で訪れている。
 この「永吉南郷会」のような歴史史談会は各地に存在しているが,剣道大会とか墓所の管理とかなど,研修などのほかにボランティアや青少年の育成のための行事などを定期的に行っている団体は県内でも稀有な存在と言われている。しかしながら,会員の高齢化,少数化でボランティア作業に苦心しているのが現状である。


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