有限会社 三九出版 - ☆特別企画☆――東日本大震災     大地震から9ヶ月を経て


















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☆特別企画☆――東日本大震災

                  大地震から9ヶ月を経て
                          高橋 重雄(東京都世田谷区)

 東日本大震災から9ヶ月が経とうとしていますが,多くの被災者の方々が避難所生活から仮設住宅に移り次の一歩を踏み出す一方で,生活費が自己負担に変わり,仕事がない被災者の方々には先の見えない日々が続いているかと思うと心が痛みます。
今年の夏は首都圏でも節電が叫ばれましたが,季節が変わるにつれ被災地への関心もいつの間にか薄れてしまい,これまでの首都圏の電力供給がどこから来ていたのか思いを馳せて欲しいところ,冬の節電対策は逼迫感もなく,被災地のニュースも別の世界の出来事のように受け止められるようになり,被災地と首都圏のギャップは大きく拡がってしまいました。
 基準値超えの放射線が検出されるたびに,生産者が加害者のように報道され,東北全体の野菜や穀物,畜産物すべてが危険物であるかのような風評とともに被害が拡大していくことをいつも心配していました。
 日本赤十字社や直接自治体へ寄せられた岩手・宮城・福島の36市町村への義捐金約2,400億円は,8月でも約6割しか被害者の手元に届かず約1,000億円が滞留し,政府の中小企業支援策の中で事業用施設復旧・整備への補助金約1,500億円が予算化されても,施設完成後の支給手続きとした為,約800件の申請に対して支給実績は数件という信じられない状況。
 東電福島第一原発事故の賠償請求の受付けも難解な書類と煩雑な申請手続きで支払いは難航するばかり。
 「日本はひとつ,みんなでがんばろう」といったCMが繰り返し流されても,企業からの義捐金は僅かしか集まっていなかったのが現状でした。国の復興構想会議でも,被災地の人々と心を一つにし,全国民的な連帯と支えあいのもとで,被災地に希望のあかりをともすことを願ってとの提言があっても,思いはまったく伝わってきませんでした。
 松本復興大臣の退任までの暴言「知恵を出さないやつは助けない」といった言葉は,被災地の方々にとってやり切れない思いだったでしょう。京都・五山送り火での陸前高田市の護摩木の使用禁止,福岡市での福島応援ショップの出店中止,愛知・日進市での福島・川俣町の花火打ち上げ中止と過剰な反応には呆れるばかり。
 それでも7月「なでしこジャパン」のW杯ドイツ大会・優勝の快挙(決勝戦のPK戦までの激闘)と9月ロンドン五輪アジア最終予選での活躍(無敗1位通過)は,佐々木監督(山形)を始め,鮫島選手(福島),熊谷選手(仙台),岩清水選手(岩手)と,東北ゆかりの選手からも被災地へ多くの勇気と希望を与えてくれたと思います。
 また,震災後の観光客数が大幅に減って東北全体の観光産業が厳しい状況にある中で,いわて平泉もユネスコ世界文化遺産登録により,震災の鎮魂と再生のシンボルとし,東北に元気を取り戻してくれました。かつて平安末期の戦乱の時代,藤原清衡公が理想として掲げた万民平等,恒久平和,自然共生といった浄土思想の心は,今回の大震災で互いに助け合い忍耐強く困難に立ち向かう被災地の人々の姿に息づいていたように感じました。
 11月には国賓として来日したブータンのワンチュク国王とジェツン・ぺマ王妃が被災馳走ましを訪問したことは,被災地の人たちに暖かい励ましとなったことでしょう。
 国王夫妻を出迎えた小学校で,ワンチュク国王が子供たちに話した「みなさんの中に人格という竜がいます。年を取って経験を積むほど竜が大きく強くなります。」とのメッセージは子供たちの心に刻まれたと思います。
 この数十年で家電製品やパソコンなどの急速な普及により生活は便利になりましたが,膨大な電力供給なしに人々の生活は立ち行かなくなってしまいました。私が生まれた1960年から2011年迄のわずか半世紀の間で,世界の人口は約30億人から70億人となりました。今後も経済成長による物質的豊かさを追い求めていくならば世界全体のエネルギー供給はさらに必要になり,今ある30ヶ国436基の原発でも賄うことができなくなってしまいます。
 ブータンが目指す国民総幸福GNH(Gross National Happiness)とは,経済成長による物質的な豊かさではなく,「足るを知る」心を大切にして精神的な豊かさを追求していくための指標かもしれません。
 福島原発事故で放出された放射性物質セシウムは半減期30年。放射線が弱まるには気の遠くなる長い年月がかかりますが,これ以上被害が拡大しないためにも,事故収束に向けた取組がひとつひとつ着実に進んでいってくれることを願っています。
 岩手・宮城・福島の被災地の状況はそれぞれ違っていても,復興において共通点があるとすれば,そこにゆかりのある人たちの「ふるさとのために」との熱い思いが原動力となっていくはずです。
 私も,震災から3週間後,自分の足で回り被災地が本当に悲惨な状態にあることを実感しました。3月末レンタカーで食料品や生活用品,暖房品等の支援物資をつめ,岩手の三陸海岸(宮古から釜石)と仙台湾沿い(松島から岩沼)を親戚,友人,知人の方を訪ねて回りましたが,本当に信じがたい光景が続いていました。
 宮古市では,遠洋漁業を営んでいる知人の方のご自宅が防潮堤付近であったにも関わらず,津波で母屋は全壊したものの,事務所三階に避難されご家族全員無事だったとのこと。遠洋マグロ漁船の入港も大震災から数日遅かったことで奇跡的に大津波の被災を免れたこと。その一方で乗組員のご家族の方々が津波被害に遭われ,身近な方も亡くなったことは本当に辛い気持ちだったと思います。
 山田町では,大学時代にお世話になった方の自宅へ物資を届けようと向かったところ町に入ると全体に荒れ果てた瓦礫の風景が広がり,以前尋ねた時の風景と信じられない変わり様に涙が出てきました。自宅のある船越半島の田浦地区は,僅かに高台だった為,奇跡的に無事だったとのこと。支援物資や食べ物等を渡し帰る予定でしたが,日も暮れ数日前に自宅に電気も通ったとのことで泊まらせて頂き震災時の話を聞かせてもらいました。船越地区では,震災後に火災が発生し消火活動もできず,さらに被害が拡がったとのこと。勤務先の釜石の小学校も避難所となり,しばらく自宅には帰れなかったとのことでした。
 さらに,田老町の中学校の先生をしていた中学時代の女性の同級生や,宮古市の内陸部で小学校の先生をしていた高校時代の剣道部の友人とも,震災後ずっと連絡がとれず心配していましたが,二人の無事も確認でき本当に安堵しました。避難場所となった小学校では,先生方も不眠不休で被害者の支援に当たられていたとのことでした。
 また,多賀城市の叔父の家は海岸から距離があったため津波の影響がなく,仙台の妻の実家も被害がありませんでした。それでも多賀城市から墓地のある仙台空港方面まで仙台東部道路を車で走ったところ,名取川から岩沼にかけての津波の爪痕は,本当に信じられない光景が続いていました。空港付近は,家屋の瓦礫とともに数多くの車が散乱していました。
 今回連絡が取れていなかった友人,知人との安否は確認できましたが,周囲の方の安否確認ができていない状況を聞くと心から喜ぶことはできませんでした。移動中のラジオから岩手ゆかりの新沼謙治さんや高橋克彦さんたちの被災支援CM「ふるさとは負けない!」のメッセージを聞いていると,苦境の中でも助け合っていこうとする被災地の人々の熱い絆の思いやりが伝わってきました。
 東北の復興はとてもとても長い道程になりますが,地縁,志縁の絆を大切にし,一日一日前に進んでいけることを願っています。
3.11の大地震を通じて,日常の平穏な生活が当たり前ではないことを強く感じるようになりました。震災支援を通じて,これまでお世話になった方々や友達とも再会して連絡が取り合えるようになりました。
 震災直後,首都圏で岩手の同郷出身者の会・ふるさと矢巾会では,全会員に募金を呼びかけ144名から集められた募金を矢巾町役場へ渡したところ,町から県内で以前より交流の深い沿岸北部の普代村へ送られました。普代村ではその募金で一艘の小さな船を購入し「やはば丸」と名付けてくれたそうです。支援のバトンが被災地まで無事届いてくれたという実感を受けました。
 私の住んでいる用賀商店街には,宮城岩手内陸地震支援をきっかけに交流が始まった陸前高田市のアンテナショップがあります。三陸の海の幸は店頭から消えてしまいましたが,在庫が残っていた商品や内陸部の特産品などが復興支援を兼ねて店頭に並ぶようになりました。今自分にできることは,被災地の方々への支援の絆を大切にして継続的な関わりを築くとともに,福島・宮城・岩手のショップや復興支援イベントで被災地の野菜や特産物を購入し続けることです。
 震災から9ヶ月が過ぎ,人々の心も気持ちも変化していきます。それでも,被災地の中で今も前に踏み出すことができずにいる方々も大勢います。被災された方々の痛みを忘れずに,今自分にできることをひとつひとつ,ふるさと東北の復興のため,ほんの僅かなことでも応援していきたいと考えています。


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