有限会社 三九出版 - 《自由広場》  若山健海と予防接種」のその後


















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                    若山健海と予防接種」のその後
                             伊藤 卓雄(埼玉県所沢市)

 幕末から明治にかけて日向国(今の宮崎県)で種痘医として活躍した「若山健海」については,本誌第30号でご紹介する機会を得たが,ここでご披露した彼の活動記録「種痘人名録」には,実は2種類があり,筆者は,それらが記録された時期に即して,それぞれ「江戸版」「明治版」と呼ぶこととしている。
 先年,江戸版をベースにして,「若山健海の『種痘人名録』を読み解く」という拙文(本誌第30号の「……読み解くために」は筆者の原稿ミス。この場をお借りして訂正する。)を公表したが,その後に明治版が発見された。明治版には,「牧水祖父健海の種牛痘之原始と種痘人名録 陶山勲蔵」と書かれた表紙があるが,これは,後年縁者(牧水の姪の夫)によって付けられたもの。筆者が注目したのは,前文に置かれた「450字余りの漢文」(白文)の内容だ。「種痘の発祥と普及の歴史や種痘術の要点・長崎での術法の習得と宮崎での普及の様子」が簡潔に述べられているのだが,その解読に確信が持てなかった。
 高校レベルの漢文の参考書を参照したり,難読漢字の解読を目指して異体文字の文献を漁ったりする日が続いていた頃,折り良く,東京で「若山牧水 東京展」が開催され,そこで,漢文の教師の経験もおありの方と知り合えたのは,実に幸運だった。宮崎のことに詳しく,牧水にも縁が深い方ということで,この方のご指導も得て,解読作業にも力が入った。ただ,種痘人名録の記述は医学的内容にわたるため,漢文としての読み下しだけでは,その正確な理解は期し難い。
 健海は,「種牛痘之原始 和蘭人Kons曰」と書き出して,「イギリス人ジェンナーが牛痘法を始め,ドイツでの多くの試験を経,危険のないものとして各地に普及した」経緯や,術法の要点,とくに難しいとされた「 真偽の区別 」,失敗しないための注意点を簡潔に述べるとともに,最後に,彼が,「嘉永三年正月」に長崎へ行き,種痘術を会得して,宮崎へ戻り,その後24年間にわたり,2000人余の人々に種痘を行ったと記している。筆者は,この「和蘭人Kons」が謎解きの鍵だと見て,幕末当時の種痘に関する文献,ことに,オランダ語からの和訳本に当たる作業を続けるうちに,当時の医師達がこぞって眼を通したと思われる「泰西内科集成」(小関三英訳)に出会う。これこそ良質の鉱脈を掘り当てたようなものだった。読み進むうちに,種痘人名録にある記述に酷似した文脈・文章を見つけたときは,まさに珠玉を得た思いがした。他の文献でも同類の記述を散見し,その感はさらに強まった。健海は「和蘭人」と記すが,今日の研究を踏まえれば,「ドイツ人医学者Consbruch(コンスブルク)」がこれに該当すると見た。当時「コンス」と略称され,緒方洪庵の高弟等の著作にも「昆氏」として頻繁に登場する人物と同一と見て間違いないだろう。このほか,シーボルトの高弟であり,後年蛮社の獄に連なって非業の死を遂げた高野長英の著作集中に,コンスブルクの著作(筆写)を発見したりしたときは,いわば歴史上の人物との思いがけない出会いを感じたりして感慨深かった。
 種痘人名録の底本,いわば種本の詮索はさておき,「泰西内科集成」その他の文献を併読しつつ進めた読み下し作業を通じて,健海の記述内容の的確さを確認し,かつ,その活動を想像することができたことは嬉しかった。また,種痘人名録に登場する地名を探して,未知の土地を地図上で辿る作業も楽しい旅の一時だった。
 幕末の漢文,それも医学的内容を含むものを読破することは,まさに蟷螂の斧を振るうが如きことと思えたが,漢文の断片から色々想像し,考えを発展させる作業は,丁度パズルを組み立てる作業にも似て,そのこと自体が楽しめた。
 昨年は,健海の生誕から200年目に当たる年。筆者は,これまでの研究成果を,「若山健海と二つの種痘人名録」として整理し,「牧水研究」という研究誌に投稿した。内容は,本誌第30号掲載の拙稿の大要を序とし,明治版の読み下しとその口語訳を中心に据えて,健海の種痘活動についての考察を記したものだ。「牧水研究」は,「牧水研究会」(会長伊藤一彦氏・毎日歌壇選者など)により宮崎で発行されている研究誌,牧水の短歌に関する研究や牧水関連の記事が中心の専門誌だが,拙稿も,牧水のルーツに関わるということで掲載を認められた様である。
 ふとしたきっかけからの取り組みだったが,様々の文献資料に触れる楽しみや新たな発見の喜びを知り,多くの方々との新しい出会いもあった。いずれもこの研究の余禄であり,得がたい宝物となった。三九出版様に貴重な機会を二度もいただいたこともその一つであり,この場をお借りして厚くお礼申し上げます。
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