有限会社 三九出版 - 《自由広場》  淀君は群馬県で生きていた?


















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                    淀君は群馬県で生きていた?
                             成田 攻(東京都豊島区)

 「半都会+半田舎」ライフに憧れ,私は退職後,前橋市のマンションに拠点を構え,愛車を駆って群馬の自然と温泉と食と歴史探訪を楽しんでいる。最近,前橋市の北のはずれ,利根川の西岸,総社と呼ばれる地区の小高い丘に「マイ絶景ポイント」を見つけた。 北に向かうと利根川のゆったりした蛇行と上信越の山岳パノラマが一望でき,まるで天下を取ったような気分が味わえる。と悦に入っていたら,400年も前にそこに居城を構えていた男がいた。総社藩藩主・秋元長朝である。
 「マイ絶景ポイント」から左手後ろに目を転ずると,竹林にうずもれて小さな寺がひっそりとたたずんでいる。秋元長朝が父・景朝を弔うために城内に建てたという元景寺だ。ところが境内の案内を見てびっくり。な,なんと,景朝の墓の隣に「浅井長政の娘・淀君」の墓があるというのだ。淀君といえば豊臣秀吉の側室,大坂夏の陣で落城の際に自ら火を放って秀頼とともに自刃して果てたというのが定説だ。あの淀君が群馬県に生きていた? 荒唐無稽も甚だしい。あまりの馬鹿馬鹿しさが気に“入”って由縁を調べてみたら,どうも郷土史家たちの見解も一致しているわけではないらしい。そこで,諸説を吟味,取捨選択し,私の推理を若干補って筋道を追ってみると,こんな“真相”が浮かび上がってくるのだ。
 慶長20年(1615)5月,大坂夏の陣の終局を迎えて徳川秀忠は思案していた。戦国の掟,秀頼の死は免れぬ。が,せめて淀君を救う手立てはないものか,と。挙句,包囲勢の中から秋元長朝を本陣に呼び「大坂城から淀君を救出してそなたの所領に連れ帰り,丁重にかくまえ」と命じた。かくして,元々が近江浅井家の家臣の家柄であった秋元長朝は勇躍,「お姫様」の救出に出動,と相成るのであります。夜陰(いや,朝霧の方がいいかな?)に乗じて大坂城から淀君を救出するや,駕篭の両脇を人壁で固め,木曽川を渡り中仙道を駆け抜け, ひた走りに総社まで逃げ帰ったことであろう。そのときの駕篭の扉板が元景寺に残されているという。美しい絵模様が入った女駕篭で,桐の葉と菊の花が描かれている。 桐といえば豊臣の家紋,淀君の本名は浅井菊子。ゆかりの駕篭とされるゆえんである。寺には正絹に金糸銀糸で亀の刺繍を施した薄紫の内掛けも保管されている。そういえば,浅井家は亀甲紋だっけ。
 ところで, 元景寺の墓標には「心窓院殿華月芳永大姉」と戒名のみが刻まれており,脇のプレートには「長朝の側室・成の墓」とある。あれっ? 寺の過去帳にそこまではっきりと記帳されているのに,それを淀君と強弁する根拠などあるのか? あるのだ。第一に,長朝は名君の誉れ高く,領内に灌漑用水(天狗岩用水)を引く大事業を起こし,3年間領民からの年貢を断って自ら貧乏暮らしに甘んじ,生涯妻を娶ることはなかったと伝えられている。第二に,戒名につけられた「院殿」という号は将軍や大大名に与えられるものであって,小大名の側室に用いることなどあり得ない。第三に,「華月芳永」とは故人が高貴にして美しい人であったことを思わせる。第四に,主の左後ろ手,地面に伏して控えおる二十数基の小さな無名墓石は,大坂城から淀君に従ってやってきた家来,侍女,駕篭かきたちのものと昔から語り伝えられている。
 されば,上野国総社に落ち延びた淀君は余生を幸せにまっとうしたのであろうか?否,亡き子秀頼を偲び,豊臣を裏切った家康を憎み,貧しい田舎生活を嘆き,気の晴れる日はなかった,と伝えられる。気晴らしに「マイ絶景ポイント」を折々訪れたことは疑う余地はない! 人々からは「お艶さま」と呼ばれていたというから,やはり母・お市の方ゆずりの際立った美人であったのだろう。しかも,憂いを含んだ女性はさらに美しい。その美しさに惹かれて長朝が淀君に恋心を抱き言い寄ったとも伝えられるが,淀君が心を動かすことはなかった。ときすでに長朝は70歳を,淀君は50歳を超えていたはずだ。それからどれほどの月日が流れたのであろうか。淀君は世を儚んでやつれはて,ついに利根川に身を投げて死んでしまった,という。その場所とされる対岸の敷島公園に,日展審査員・山元雅彦氏の作になる「お艶観音」像が建てられたのは昭和34年であった。長朝は時代に翻弄され続けた淀君の死を哀れみ,元景寺の自分の父母の隣という大事な場所に手ずから葬り菊の花を手向け,かつ自分の淡い思いを込めて寺の過去帳にそっと「側室」と記帳したのではないか, と私は推理する。
 ちなみに,大阪の大融寺に後世の人々が建てた淀君の慰霊塔があるが,墓と称するものは他にはない。尚,関が原以前には深谷上杉氏に禄高五百石で仕えていた秋元長朝が,総社を拝領後わずか4代目の喬知にして,江戸の外城として格式の高い武蔵国川越城主に禄高六万石で封じられ,あまつさえ,外様の身で幕府の老中に取り立てられたのは,天下泰平のこの時代には極めて異例なことであったと考えられる。
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