有限会社 三九出版 - ――《自由広場》――   『第二回東京マラソン』


















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『第二回東京マラソン』

佐藤 誠之(岩手県一関市)  〜2009年3月記〜


昨年の第一回東京マラソンは,日医ジョガーズの医療ボランティアでフルに出場しましたが,体調不良のため30キロ地点で無念のリタイア,悔しい思いをしました。
今年は74歳という年齢を考慮して,一般の10キロに応募,運良く5倍の倍率をクリアして,プラチナ切符を手にすることが出来ました。
それなりに走り込んでいたのですが,世の中何が起こるかわかりません。昨年11月末の寒い日,車で下りアイスバーンに突っ込んでしまい,車は2回転して土手下に転落するという事故に遭い,第一腰椎を圧迫骨折してしまったのです。夜は寝返りも打てない程の痛みで呻吟していたのですが,日中は何とか歩けましたので診療だけは続けていました。健康だけが取柄の自分ですが,初めて体験する歩行障害に身障者の気持ちが良くわかりました。
1月も中旬,もうそろそろいいかも知れないと淡い希望をもって一関病院の整形外科にMRIを撮ってもらいに行きました。友人の佐藤良先生は写真を見て「つぶれは進行していますし,骨も固まっていませんよ。安静が第一です。腰に負担がかかる動作は極力控えてください」と言われました。私が「2月の東京マラソンは無理でしょうか」と聞くと,「マラソンなんてとんでもない。それだけは諦めてください」と固く釘を刺されました。私は「そうか,やっぱり駄目か。それなら諦めよう」と1月一杯は負荷の少ない生活をしていました。
そして2月の声を聞いた途端に何だか体調が良くなり,走れそうな気がしてきたのです。そこで朝密かに走ってみると,超スロージョグでしたけれど走れたのです。これならばと少しずつ距離を延ばして7キロ程走れるようになり,東京を走れる希望が湧いてきました。東京には皇居前のパレスホテルを予約してありましたので,女房には「大会の雰囲気を味わいたいし,東京見物のつもりで行こう」と言って前日出発し,受付けだけは済ませておきました。
天候不良なら止めようと思っていたのですが当日は快晴,絶好のマラソン日和です。私は遂にスタートラインに立ちました。競走するつもりなどさらさらなく,ただ完走を目指していました。自分の走力は歩くのに毛が生えた程度。キロ10分で走れば何とか制限時間内にゴール出来ると読んでいたのですが,後方に並んでいたためスタートラインを通過する迄に15分もかかり,その後も思うように前に進めません。これでは9分か8分台に上げないとゴールはおぼつかない。これは困った,完走出来ないかもしれない,という不安が脳裏をかすめましたが,走るしかない。集団で走ると意外にパワーが出るものです。飛び跳ねることの出来ない私は,地を這うような忍者走法です。沿道の大声援にも後押しされ,キロ8分台で気持ちよく走れたのです。心配していた腰も痛まない。
今の自分には精一杯のスピードで走っていると,走れる喜びが全身に溢れ,涙が出そうになりました。後半さすがに疲れましたが,右手に皇居が見えてきたら不思議な力が湧いてきました。あと1キロだ頑張れ!と自分を励ましながら走りました。ゴールの少し前にカメラマンがいたので思わずガッツポーズをしたら望外の記念写真になりました。
ゴール地点には,あれだけ出走に反対していた慎重派の女房が,目に涙を浮かべながら私の完走を迎えてくれました。完走が危ぶまれていた私は,制限時間より12分も早くゴール出来た喜びで脳内からβエンドルフィン(快感ホルモン)がどんどん分泌され,幸せな気分になっていました。
専門医の忠告を無視して走った私の行動は正に暴挙なのですが,ゴールした瞬間それは快挙に変わりました。ホテルに帰って一風呂浴び祝杯を挙げたのは言う迄もありません。
来年は万全の体調で走りたいと思っていますが,異常な人気のため倍率が7倍になると言われており,走れる保障はありません。
人間なんて何のかんのと理屈をつけて,結局やりたいことをやるもんだ,そして執念があれば事は成る,というのが今回の結論であります。
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