有限会社 三九出版 - 赤道直下サンダカンの超音波検診


















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☆超音波医学国際会議出席異聞(5)    赤道直下サンダカンの超音波検診

                         和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)

 昭和30年代,私共の世代にとって東南アジアと言えば南洋,南洋と言えば,大東亜戦争中の激戦地,少年時代の「冒険ダン吉」や赤道直下では「酋長の娘」の唄がほろ苦く思い出される程度だった。当時,この東南アジア各国の大学などから超音波診断法に関する講演と実技指導の招待が来ていたが, 東南アジアはまだ遠い国だった。
 これが昭和42年, 私共の大学の熱帯医学研究会恒例の東南アジア調査団長に任命されたことにより,思いがけずボルネオ・サンダカン訪問と東南アジア各地の大学訪問が一挙に実現することになったのには,驚くと共に何とも幸いなことだった。
 しかし当時の私は,ボルネオのサンダカンが東マレーシアに属するとは全く知らない状態だった。この東南アジア訪問の具体的計画として,まずサンダカンでの約10日間,英国系ケント公爵夫人記念病院での熱帯医学調査研究,在留邦人の健康診断などの実施と同時に私が最重要と考えたのが,当時開発した最新型ポータブル超音波診断機を持参,住民の肝臓病の超音波集団検診を行うことであった。
 昭和42年7月3日,副団長の脳外科医と共に羽田空港をJALで香港に向け出発した。6名の学生団員は,サンダカン寄港のフランス貨物船に便乗,早めに出発していた。1年前に一般国民の海外旅行が許可になったとは言え,当時飛行機での海外旅行は極めて珍しい頃で,羽田空港には多くの関係者が見送りに来て,万歳が空港ロビーに響いていた。香港に一泊後,香港よりマレーシア航空で東マレーシアのサバ州都のジュセルトン(現コタキナバル)に到着。ここに一泊後,小さいプロペラ機で,東京出発後3日目にやっとサンダカン空港に到着した。萱葺き屋根の小さい空港ターミナルで,先着の学生団員や北ボルネオ水産の社員の出迎えを受けた。車でサンダカンの町に向かう途中,この空港と立派な道路は,戦争中日本海軍が造ったものとの説明に感心した。サンダカンの町は,想像以上に立派な西欧風の建物が多い街並には驚かされた。やがて,町外れの湾に面した「北ボルネオ水産」に到着した。ここが,今回の熱医研調査活動の拠点となり,団員の宿舎ともなった。この北ボルネオ水産は車海老の漁獲が主な仕事で,ここで漁獲されるエビの大部分は日本に輸出され,エビ天などの材料にされるとのことだった。少憩後,ケント病院を訪ねた。郊外の丘の上に立つ白亜の素晴らしい病院で設備や内容の素晴らしさには,英国植民地統治の優れた政策と,日本の戦時中の劣悪な占領政策との大きな差に愕然となった。院長には今回の学生団員の熱帯病調査,治療実習と私の超音波診断の講演実習を大歓迎して頂いた。
 私は北ボルネオ水産内の一室で,会社の現地人従業員やその家族の健康診断を行った。しかし,実際は皮膚病などの治療が主で,これを聞きつけた付近の住民も押し寄せ大忙しとなった。また今回のボルネオ訪問の重要な目的の東南アジアに多い肝疾患の超音波集団検診を実施し,予期以上の成果を挙げることが出来たのは幸いだった。ケント病院でも多数の入院患者の超音波診断を行い,当時日本では珍しい多くの肝臓がん症例のデータを収集できたことは,学術的にも極めて有意義な成果であった。
 このサンダカン滞在中に経験した珍しい話を紹介する。サンダカン郊外では,現地人は海岸の海上に突き出した高床式のニッパハウスに住んでおり,下水やトイレはそのまま海に流し,その下で平気で炊事もし,子供たちが水浴をしているのを見て心配になった。しかし保健所の職員によれば,海中の微生物による自然浄化作用により伝染病などの心配はないとのことだった。日本商社による奥地でのラワン材の切り出し現場や,大量のラワン材の湾内の貯木場の見学も行った。このラワン材の伐採は,土地の開拓にもなるので,当時はマレーシア政府も奨励していた。これらのラワン材の全てが日本に輸出されたのだったが,これが近年になり,無計画な森林の伐採事業が熱帯雨林絶滅という環境破壊に連なる大問題になろうとは,当時は誰も予想しないことだった。町外れの小高い丘から「小香港」と呼ばれる美しいサンダカンの夜景を眺めたことがあった。この丘の一隅に古い寂れた日本人墓地があり,これが数年後,山崎豊子著「サンダカン十八番娼館」が有名になるにつれて,ジャパユキさんの墓であることを知ったのは感慨深いものがあった。学生団員が町のレストランの「肉そば」が大盛りで安いとのことで,一緒に行ったことがあった。なるほど,そばが見えないほどの肉が乗っていたが、これが後日犬肉と聞かされたのには驚いてしまった。午後になると毎日のように南洋特有の物凄いスコールが来て,しかも,スコールが去った後は,急に気温が20度近くも下がり,寒くすら感じられるのには驚かされた。
 以上は,現地の日本領事が「南洋探検の如き壮士気取りの時代錯誤の日本人の訪問には参っている」と嘆いていた,今より50年ほど前の話である。



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