有限会社 三九出版 - 護国寺の“おケイちゃん”


















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《自由広場》 
                    護国寺の“おケイちゃん”

                            成田 攻(東京都豊島区)

 護国寺は,五代将軍・綱吉が生母・桂昌院の願により天和元年(1681)に建立した江戸の名刹で,重要文化財に指定されている。1.2キロに及ぶ音羽通りは,元禄の門前町の繁栄を髣髴とさせる。私は地元の文京区立青柳小学校に通い,護国寺の境内で遊んで育った。思い出は多々あるが,長年気になっていることがひとつあった。
 私が小学校の低学年の頃,東京にはそこかしこに空襲で焼け出された人々が住み着いた貧民街があり,駅には白衣に義足の痛々しい姿をさらして道行く人々に物乞いをする傷痍軍人があふれ,日本はまだ敗戦の深い傷を引きずっていた。 そんな世相の中,私は通学路や護国寺の境内で,一人の乞食とよく出会った。髪の毛は伸び放題,顔は黒く煤け髯ぼうぼう,汚れたどてらに身を包み,腰にはずた袋,蓑虫のようにゴザを纏ってよたよたと歩いていた。小学生は立ち止まってお辞儀をし,お母さんたちは家に駆け込んで残飯やふかし芋をもってきてうやうやしく差し出した。人々は敬意と親しみを込めて彼を「おケイちゃん」と呼んだ。私たちは学校の先生から,こんな話を聞いた覚えがある。おケイちゃんは元大学の英語(英文学?)の先生だった。終戦まぢかのある日,空襲で家を焼失し,その上,家族全員を死なせてしまった。嘆き悲しんだおケイちゃんは,世をはかなんで乞食に身をやつし,護国寺境内に住み着くようになった,という。NHKの「往く年来る年」が護国寺境内から除夜の鐘を中継したとき,おケイちゃんは流暢な英語でGHQのマッカーサー総司令官に向け,空襲で家族を失った者の悲しみと苦しみを切々と訴え強く抗議した,とも聞いた。たしかに子供の私にも,おケイちゃんは深い悲しみを背負って歩いているように見えた。
 定年の歳になった頃,私はふとおケイちゃんのことを思い出してしまった。彼はどういう人だったのか。彼の身にいったい何が起きたのか。私は小学校の同級生や,護国寺本堂裏の花屋さんや,境内で見かけた坊さんに尋ねてみたが,何ひとつ分からなかった。半世紀も昔の,それも一人の乞食のことなど,誰も覚えていないのは当然だった。私は諦めるしかなかった。ところが,今年の1月末に,思いがけず,護国寺のご住職に本坊の応接間でお目にかかる機会を得た。真言宗豊山派大本山護国寺・第53世貫首岡本永司大僧正は現代の高僧のおひとりで,信徒からは“ごぜんさま”と呼ばれる。80半ばと思われるご住職はとても気さくな方で,終始にこやかに昔ばなしに興じられた。私は恐る恐るおケイちゃんのことをお尋ねしてみた。予期せぬ質問にご住職は一瞬たじろがれたが,すぐに顔を和ませ「おケイちゃんは大師堂の縁の下で,冬は野良犬たちにくるまって寝ていました。夜には買ってきた酒を飲んで三味線を弾いてよく歌っていましたなぁ。作家の三角寛さんと懇意にしていましたよ」と懐かしがられた。そして「たしか何か資料がありましたな」と言われ,ご親切にもその場で探し出されコピーまで下さった。私は重ね重ね恐縮し,お礼を述べて退出した。
 三角寛は戦後,山窩を主題にした作品を多く発表し,また山窩の研究者としても知られた。山窩とは,川魚漁や竹細工を生業として山岳地帯を移動しながら生きる漂泊民といわれる人たちで,起源は古代から江戸時代まで諸説ある。独自の言語や文字を持つという説もある。謎が多く偏見と差別の対象とされてきただけに,三角の発表した小説と研究は注目を集めたらしい。もっとも,最近では三角が本当にどこまで山窩の実態に入り込んで調査したものか,三角の創作なのか,と疑問視されており,彼の著作の陰に有能なゴーストライターがいたのではないかとまで言われている、とか。
 さて,護国寺のご住職から頂いた資料は7頁の抜き刷りで出典は不詳であるが,内容から三角が書いたものと判る。売れっ子作家の元には発表の機会がない新人作家などが勝手に原稿を送りつけてくるものらしい。ある日,送られてきた原稿の内容に惹かれた三角は,その送り主たる上垣和三郎を下宿に訪ねる。下宿屋の主人から,その男はなぜか下宿に住み着かずいつも護国寺の境内に寝泊りしていると聞く。その足で行って探してみると墓地の墓石を机代わりに原稿を書いている男を発見し,「お圭ちゃん」と声をかける。しばしの会話から三角はお圭ちゃんの山窩に関する博識ぶりに驚愕し,彼の原稿を今後も資料として買い取る約束をした,とある。(小学生の私がおケイちゃんを見かけたのは,恐らくそれより十年近く後のことと思われる。)
 はてさて,これがおケイちゃんの真相だったのだ。私が半世紀も心を痛めてきたあの悲しい話は何だったのだろうか。それにしても,伊勢の皇學館(神官の養成学校)を出て神戸精華女学校などで国漢と歴史を教えていた上垣和三郎が,兵庫県三田の家屋敷を捨ててまで乞食人生を選んだ理由は何だったのだろうか。とまれ,お圭ちゃんが護国寺で亡くなって55年になるという。もうこれ以上の詮索はやめよう。合掌。



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