有限会社 三九出版 - 亜熱帯気候の中で〜宮古島市〜


















トップ  >  本物語  >  亜熱帯気候の中で〜宮古島市〜
ふるさとを語る
                  亜熱帯気候の中で〜宮古島市〜

                           宮沢 盛文(沖縄県浦添市)

 わが宮古島は,沖縄本島(那覇)から南西290キロの距離に位置し,四方を海に囲まれた大小六つの島からなる。人口は5万5千人(2014年1月末現在),総面積が204平方キロの小さな島々は,ほぼ平坦な台地状の地形で,島の最も高い所で108メートルしかなく,大きな河川や湖もないため生活用水も地下水(地下ダム)に頼っている。地下ダムは,地下水を堤体でせき止め,貯留して利用する施設で,宮古島が世界で初めて。総事業費は640億円をかけて整備され,2001年に完成した。気象は,日本で唯一の亜熱帯気候に属し,平均気温は22.4度。年間を通じて気温は大体10度から30度の間にあり,平均湿度は77%の高温多湿で年間降雨量は2128ミリ。主な産業は,農林水産業と観光で,農業は基幹作物のサトウキビのほかマンゴなどの果樹が盛んである。
 ここで「我がふるさと」についていくつかを紹介します。
1.イチローを育てた宮古島キャンプ プロ野球春のキャンプ(2月〜3月)は,沖縄県に集中している。理由は,温暖な気候と,多くの球団がキャンプを行って練習試合がしやすいという点にある。沖縄県でキャンプを行っている球団は,ソフトバンク・西武を除く10球団のほか,韓国のプロ野球サムスン・ライオンズ等6球団が行っている。宮古島で最初にキャンプをしたのはオリックスで1993年。以後現在まで続いている。当初は宿泊先のホテルの近くには何もなく,選手達は飲み物や食べ物などの買い物もできなかったので苦情が出た。その後すぐにコンビニができた。イチロー選手が在籍していたころで,地元では,「イチローコンビニ」と呼ばれていた。
2.全日本トライアスロン宮古島大会 今年も第30回日本トライアスロン宮古島大会が4月20日に行われる。国内外から1647人が参加する。スイム3キロ,自転車155キロ,マラソン42.195キロのコースで,13時間30分の制限時間内に駆け抜ける。今回のスターターには,安倍昭恵首相夫人が務めることになった。
3.(宮古)下地島パイロット訓練飛行場 1979年,国策に基づいて日本唯一の航空会社のパイロット養成訓練飛行場として建設された。滑走路は南北に3千メートルもある。現在は,日本航空が経営悪化で撤退し,全日空だけが使用している。航空会社の操縦士育成はシュミレーター施設の発達によって,実機を使う訓練が大幅に減った。
4.ドイツの商船とドイツ文化村 1873年(明治6年),ドイツの商船ロベルトソン号は,貿易のため中国の福州を経由してオーストラリアに向かう途中で台風に遭い,宮古島の旧上野村(現在は合併し,宮古島市)の沖合で暗礁に乗り上げ座礁した。乗組員10人の内2人は死亡,生存者8名の内2名は重症を負っていた。風雨がようやく収まった時二隻のくり船に通訳と医師その他救助要員の人達が難破船にたどり着き応急手当を施し,無事救助に成功した。生存者達は,体力が回復し,帰りの船の準備ができるまでの間,宮古島の人々からあたたかいおもてなしを受け,34日目にして彼等は帰国の途に就き,台湾を経由して無事ドイツに帰国した。乗組員達は東洋の一孤島の善行を多くの人々に語り,ついにドイツの皇帝ウイルヘルム一世は,この行為に対し,3年後の明治9年に軍艦チクロープ号を派遣して,宮古島の平良港(ひららこう)の近くに記念碑を建立した。それに伴い上野村の「博愛ビーチ」の正面に「独乙商船遭難の地」の碑が立っており,この碑は昭和11年に建てられたもので,碑文の文字は,時の内閣総理大臣近衛文麿公の直筆によるものである。当時日独友好が急速に進んでいた時代でもあり,再び脚光を浴びることになった。
 次にドイツ文化村はこの乗組員救助の話にちなんで1996年に完成したものであるが,上野村の「むらおこし」のきっかけになった。上野村の海岸近くに宮古島唯一のテーマパークがあり,そこには中世ドイツの城を再現したマルクスブルグ城があり,内部には中世時代の生活様式を再現した展示室などがある。グリム童話に関する資料などを紹介するキンダーハウスはじめ,色々な資料が展示されている。現在,ドイツのシュターデ市と姉妹都市を締結しており,そのこともドイツ文化村誕生の後押しともなった。ドイツから招かれた交流員が地元の生徒達に語学指導するなど,交流事業も盛んに行われており,夏場はダンケ(独語でサンキュウ)フェスタという祭りがあり、ドイツ産のビール早飲み大会で盛り上がる。キンダーハウス内には東西ドイツ統合で撤去された「ベルリンのカベ」の実物の一部が展示されている。そして2000年7月の沖縄サミット(小渕恵三首相)に参加したドイツのシュレーダー首相は、沖縄本島からはるかに離れた宮古島のドイツ村を訪れ,交流を深めた。それは前述のような歴史的背景があったからである。






 
投票数:40 平均点:10.00
前
風の変わり目?
カテゴリートップ
本物語
次
「食べる」ということ

ログイン


ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失