有限会社 三九出版 - ――《自由広場》――   『東京マラソン』


















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『東京マラソン』

佐藤 誠之(岩手県一関市)

平成19年2月18日,第1回東京マラソンが開催され,それに参加したので参加の記を書いてみる。
この大会は石原都知事の号令一下,渋る交通族の反対を押し切って実現したものであり,一流ランナーと大衆ランナーをドッキングさせ,出場者3万人,制限時間7時間という世界規模の大会である。
約10万人が申し込み,そのうち7万人が抽選もれで走れなくなるという,異常な人気の大会となった。
当日は200万人以上の人出で賑わい,その経済効果は200億以上と言われ,正に走るお祭りであった。
私は「日医ジョガーズ」の走るボランティアとして参加した。「突然死は出すな」という大原則の下,かり出された医師,看護師は500人以上,「日医ジョガーズ連盟」からは100人の走る医師が一緒にレースを走り,故障者に即対応することになり,抽選は免除で走ることができた。
当日,外は氷雨,風も強く気温も5度と低い。そんな中,8時半には3万人のランナーが都庁前の路上に並び,9時10分のスタートを待った。私は73歳という年齢を考慮して最後尾に位置した。号砲が鳴ってからスタートラインを通過するまで20分かかり,その頃トップ集団はもう7キロ先を走っている。
寒いためかトイレに行く人が多く,どのトイレも20人,30人と並んでいる。1回のトイレで20分ぐらいタイムをロスする勘定だ。女の人は大変だろうな,と思った。
遅い流れに乗って靖国通りを下り,皇居を右に見て日比谷に到達したところで10キロ,品川を往復して20キロ,そこから銀座,浅草を往復し築地を通って,ゴールの東京ビッグサイトに向かう42.195キロなのだ。
都心の交通を遮断して遅いランナーを走らせてもらえるなんて,普段では考えられないことであり,沿道の応援もすごい。歩道は人垣で身動きができない程,人で溢れていた。
普段の練習では20キロがせいぜいの老骨に20キロ以上はきつい。降りしきる雨に全身ずぶ濡れ,手袋も水を吸って手はかじかんだまま。20キロで余程止めようと思ったが,銀座,浅草を通らなければ東京に来た甲斐がないと思って頑張って銀座に突入した。反対側の道路を速いランナー達がひしめき合いながら通り過ぎて行く。我々の方は遅いランナーがパラパラと走っている。
途中,バナナや人形焼きや飴がある筈だったが,遅いランナーが通過する頃には何も無く,あるのは水だけ。水を飲んでもエネルギーにはならない。寒さと空腹に耐えながら銀座を過ぎ浅草にさしかかった時「氷砂糖をどうぞ」と差し出す人がいた。腹ペコの身には有り難いが,私は手がかじかんでそれをつまむことができない。「おっちゃん,悪いけど口の中に入れて」と言ったら入れてくれた。その甘くておいしかったこと。それをエネルギーにして,しばらくの聞走ることができた。28キロの浅草雷門を回る頃,殆どの人は歩いている。今,自分が走っているのは最後尾に近い。5キロ毎の関門で通過できなかった人は,皆収容車に乗せられているのだ。私の5分後を走っている人はもういない。
もう少し頑張れ!と言う自分と,もう止めろ!と言う自分との闘いだった。携帯電話は持っていたのだが,手はかじかんで感覚が無く,取り出すこともボタンを押すこともできない。唇は冷え切って喋ることもままならない。全く哀れな姿のまま30キロ地点でリタイヤした。まだ2時間あるので残り12キロは走れそうな計算だが,疲労困憊の体が言う事を聞かなかった。その場にうずくまって眠りたい心境だった。一瞬,冬山の遭難とはこんなものかとも思った。止める勇気も必要なんだと自分を納得させ収容車に乗った。乗ったはいいけど着替えはゴール地点に送ってあるので,ずぶ濡れのまま寒さにガタガタ震えていた。
こんな苦しい体験をした東京マラソンだが,ゴール地点で落ち合った家族に支えられてホテルに入り,ゆっくり風呂で体を温め,熱燗で一杯やる頃には,もう来年のリベンジを誓っているのだから不思議である。30年も走り続けている私は,重症マラソン中毒症なのであろう。もうつける薬は無い。私が走り続けている根底には,メタポリック症候群を克服したいという願望がある。マラソンと健康の大敵は肥満である。
「負けるなよ 生涯続く リバウンド」と心に念じながら,今後も精進を続けたいと患っている。
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