有限会社 三九出版 - 田宮牂(そう)斎(さい)の墓と天誅組の変(2)


















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《自由広場》 
               田宮牂(そう)斎(さい)の墓と天誅組の変(2)
                            岡本 崇(京都府木津川市)

 新子村の岡本家は,天誅組が白銀岳に本陣を置いた時,宿舎となり,中山忠光卿の馬も預かり,兵糧米を差出し協力したので忠光卿の証文(賀名生の里歴史民俗資料館に寄託展示中)を3通貰っている。岡本家は天誅組軍医,乾十郎とも入魂であったし,天誅組軍医・井沢宜庵の妻(40年間白銀岳山頂の波宝神社の宮司を務めた岡田徳義の姉)が,岡田家から嫁いでいるので,天誅組の志士達を岡本家で匿ったと云われている。その為,宜庵が自首するのは他の人より1か月後であった。田宮牂斎もここで匿われていた可能性が高い。牂斎が死亡した明治11年前後を調べると,儀三郎は,明治6年に吉野郡学区取締りを奈良県から,11年には新子村総代を堺県より拝命している。12年には小学校へ10円寄付しており,その翌年には堺県会議員に当選。その後,大阪府会議員・奈良県会議員・紀和鉄道監査役・吉野銀行取締役(五條支店は吉田松陰と森田節斎が出会った家跡に開業。現、桜井書店の隣)・吉野材木銀行監査役などと活躍した。明治16年の「大和国置県之建白書」には,今村勤三(天誅組立役者の今村文吾の甥)・中村雅真(後の貴族院議員)・永田藤平(広瀬屋・大阪府会議員)・岡本義三郎(油徳)・岡本栄次郎(泉屋)・岡本政太郎(岡崎本家)達が署名をしている。
<海神神社の謎> 牂斎の墓は小学校や海神神社の方向を向いているが,白銀岳の波宝神社も海神神社を向いている。海神神社の下は,我が祖達が大昔に住んでいた所。平城京⇒藤原京⇒飛鳥京⇒壺阪山⇒金岳⇒銀岳(白銀岳)を結ぶ聖なる南北線上にある。さらに,銀峯山⇒竜王山(海神神社)の延長線上には,和歌山県日高郡みなべ町があり,奈良時代以前に茨城県の鹿島神宮から勧請した鹿島神社がある。沖合には,古代から神の島と崇められてきた鹿島もある。鹿島神宮からは,767年,藤原氏の勧請により御分霊を祭主中臣大宗が捧持して,時風・秀行(ひでつら)の二子が従い,約一年かけて奈良の三笠山(春日大社)に祭り奉った。その後,大宗は本宮に帰り,時風・秀行がそれぞれ辰市・大東両家の祖となったと云われる。養子に来た私の父の実家(大東家)も,ルーツを辿ると千葉県香取郡東庄町で,鹿島神宮(茨城県)や,香取神宮(千葉県)ともご縁がある。田宮家は,39代で明治維新を迎え,その37代正六位,田宮嘉左ェ門藤原秀実朝臣の弟が分家し,「揚庵」という屋号で代々蘭方医をやっていた。私の大学時代の恩師,難波田春夫先生の回顧録を作っていたら,私の34代前の祖,平忠常が共通の祖である事が判明。忠常の母は,藤原教宗の娘とも云われる。「人類皆兄弟」と云われるが,誰がどこでどのように繋がっているのかが興味深い。
<田宮牂斎の孫と直木三十五> 牂斎の娘里枝は,明治7年,奥谷小学校初代校長,櫛本嘉昨に嫁いだが,その長男,櫛本重雄は大正5年,白銀北尋常小学校初代校長に就任している。直木三十五が,その分校の奥谷小学校を離任した5年後である。したがって,重雄は,直木三十五が代用教員として在籍した頃,直木と同じ下宿に居た同僚ではなかろうか。娘の父親とは牂斎の二男,安太郎が婿に行った,河井家(岸和田市)の事ではないだろうか。重雄の妻は河井千代(奥谷小学校教員)らしいが,小説家,直木三十五の書いている「房江」という女性が「千代」ではないだろうか。直木賞でお馴染の,直木三十五自叙伝「死ぬまでを語る」には下記のように記されている。
 「教員は校長、その次、女教員、私と四人。…校長は校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と同僚が、山の崖のふちに建っている小屋に等しい二間の家に住む。…女教員が独身者で …村の娘で頬は少し赤すぎたが、ちょっといい女なので、独身者の校長と私の同僚とがライバルになったのである。…同僚が、「房江さん、君どう思う」と聞いたので、すっかり見抜いてしまった。…今から考えると、娘の父親は,転々として行先の変わってしまう校長より、同僚を婿にでもして、娘を離したくなかったものらしい。娘さんは中立で困っていたらしかった。私は辞して東京へ出たが、山の中の平和な… もし私が文筆で暮らせなくなったら、ああいうところへ行けばまだまだ日本ものんびりしていると思っている。」
 直木三十五が居た頃の奥谷小学校の独身校長とは,4代目黒岩熊吉か,5代目松本松次郎であると思われる。明治35年就任の初代,上滝義雄奥谷校長宛文書には,岡本儀三郎家の家系図や天誅組の顛末記などが詳しく書かれているが,どういう目的で書かれたのかはわからない。
 白銀北尋常小学校は昭和22年に小学校と中学校に分離したが,白銀北中学校の初代校長に安満義門が就任。「今度来た直木三十五というのは,生意気だから変えてしまえ」と校長に云って来たという,小学校の上の坊さんとは,義門の父、了善(妻は蓮如上人の末裔)であろう。
 終戦後しばらくの間,私の父も,この中学校で英語の教鞭を執ったご縁がある。


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