有限会社 三九出版 - うすい空気と運動靴と洗濯もの


















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《自由広場》 
             うすい空気と運動靴と洗濯もの

                    九十九 有(千葉県野田市)

 ネパールで大きな地震が起きた。被害者続出,とマスコミは首都・カトマンズの被害状況を伝えている。しかし,歩いて何日もかかるヒマラヤの村や,集落のことは報じていなかった。でも,ヒマラヤに滞在する日本人登山家がインターネットで〈いくつかの村が壊滅状態だ〉と伝えている。お世話になったシェルパ族の人たちは無事だろうか……暗い気持ちになってくる。八年前に行った晩秋のヒマラヤを思い出す。
 カトマンズ空港から飛び立った小型飛行機は,エベレストへの登山口・ルクラに向かった。 遠方には白い山脈が東西に連なっていた。 三十分ほどすると飛行場が見えた。着陸地は崖の上の狭い平地だ。今にもオーバーランしそうに,着陸した。
 冷や汗が出たよ,怖かったわ,と口々に言い合った。登山仲間は六人,うち,二組は夫婦だ。還暦を過ぎた男が四人,未だ若々しく見える奥さんが二人だ。
 背が高く顔は浅黒く,体格のいい男がロビーで待っていた。三年前にお世話になったガイドが近寄ってきて,「ナマステ,オゲンキデスカ?」と流暢な日本語で挨拶した。
 彼の後ろに五人の男たちがいた。ポーターだ。その中に,十三,四歳ほどの少年がいた。身体は細く小柄で,顔には幼さが残っていた。あの少年が三十キログラムを超える荷物を背負って,何日も登って行くのか……不安と不憫という気持ちが湧き上がってくる。少年は真新しい赤い運動靴を履いていた。それを見た,ポーターの男たちは「いいね」「かっこいいよ」と冷やかした。少年は黙って笑っていた。
 わたしたちが目指すのは,七日目に五千五百メートルのカラパタールの頂に立ち,そこから間近にエベレストを眺めることだった。
最初は川べりの小さなロッジに泊まった。翌日はこのヒマラヤ街道の最大の集落であるナムチェ・バザールで宿泊した。トレッキングも順調に進んでいた。
 三日目になると,これから先は標高が増してくる。高度に慣れるため,緩やかな山道をゆっくり登った。午前中にはクムジュンという村に着いた。
 村は雪を抱く山々に囲まれ,民家の屋根はすべて緑色に統一されてあった。登山雑誌で目にしたことがあった名峰,「アマ・ダムラム」が聳え立っていた。これほど美しい村を見たことはなかった。みんなも呆然と景色に見入った。
 昼食を今夜泊まるロッジですませ,汚れた下着を洗おうとすると,「娘にやらせてください,ほんの少しチップをあげてね」ロッジの女主人が日本語で声をかけた。
 少女は運動靴の少年と同じほどの齢に見えた。長い黒髪を後ろで束ね,アルミのたらいで手際よく洗濯をし,終えるとロープに干した。赤,青,黄色のTシャツとスポーツシャツは,ヒマラヤの青い空と白い峰々を背に,タルチョー(五色の旗)のように風に揺れていた。少女はそれを眺め,わたしを見て「キレイデスネ」と微笑んだ。
 あくる日,朝のミーティングで見たT君の奥さんの顔は,むくんでいた。どうしました,と訊く。その返事は,「高山病ですって。ここまで来て帰るのは,嫌ですよっ」と奥さんの涙は頬を滑り落ちて行く。夫のT君は俺も一緒に下るから,と妻を労わった。
 脇に座ったO君がガイドに,「頭が痛く,眠れなかったんですが?」と訊ねた。
「頭痛は高山病の特徴です。ここは,富士山より高いですよ。すぐに下らなければ」
 ガイドはO君を促し,赤い運動靴の少年を呼び,シェルパ語で何かを指示した。少年は目を耀かせ,「ハイ」と日本語で応じた。それをK君が通訳した。「飛行場まで三人を送りなさい。村の人をポーターとして一人付けるから,お前がリーダーだ」と。
 六人いた仲間は三人になった。寂しくなった。でも登って行った。
登山を開始して五日目にエベレストが見えた。 「あれが世界の……」と,しばらく見詰めていた。O君の奥さんは,下った三人に見せたかった,と呟いた。
 七日目の夜明け前,目指すカラパタールの頂へアタックした。夜空に星が無数に耀いていた。標高五千二百メートルほどだ。空気が薄い。わたしの右足の指先は冷たく感覚を失っていた。「それも,高山病でしょうね」とガイドは言う。前を歩くK君の身体がフラフラしている。「息が切れて,もうダメだ」と喘ぐK君。O君の元気な奥さんが言った。「登頂を断念しませんか,エベレストも見たし,ずっと楽しかったから」
 来た道を五日かけて下り,飛行機でカトマンズへ。ホテルで待っていた三人と再会した。O君もT君の奥さんも元気になっていた。奥さんは赤い運動靴の少年を褒めちぎった。あの子に付き添われて,ヒマラヤにリベンジしたい,と夫の顔をそっと見た。
 地震から一週間が過ぎていた。あの少年も少女も二十一,二の若者になっている。だが,わたしに見えるのは,赤い運動靴の少年と洗濯ものに見入る少女だ。それを見ている自分も八年前の自分になった。気持ちも身体もヒマラヤに戻っていた。



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