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《自由広場》 
                喝を入れられる

                    前岡 光明(東京都町田市)

 老いを意識するのは,能力低下を思い知らされた時である。最初は愕然としても,自分も少しずつ周りの老人たちの振舞いに近づいているのだと自覚する。下手に抗らって惨めな思いをするよりも素直に定めを受け入れる方が利口だと諦観する。
でも,退職後三回ほど入院して,そのたびに体力が落ちたのを懸命に運動して盛り返した経験がある私は,体は使わねばだめだと思い,できるだけ歩くし,自転車で遠出する。また,週に一,二度ソフトバレーボールを楽しんでいる。
 また,私は宇宙のことが好きでずいぶん解説書を読んだが,それらの安易な説明に反発して,自分ならこう考えると,古典力学にもとづいた「星の生まれ方」をまとめようとしている。十数年やっていると,宇宙の重なり合う泡構造から,銀河,太陽系まで,体系立った理論になった。もう少しである。
 でも,頭の衰えはしようがない。近くに住む小一の孫娘にせがまれて家族でトランプをするが,私は弱い。裏返しにトランプを撒き二枚ずつめくって同じ数字のものが出れば取れる「神経衰弱」は,まったくだめだ。どこにあったか,すぐに忘れてしまう。反対に,やるたびに孫娘が成長していくのをうれしく眺めている。
 去年の九月,よく晴れた日の十時頃,私は,自転車で警察署の広い裏通りを走っていた。息子のお古の電動自転車で,がっしりしている。電池がすぐ切れるので電源はオフにしている。四つ角にさしかかった。右手からバイクが爆音を立ててやってくるのが見えた。相手側が一時停止だ。私はゆっくり走っている。しかし,いっこうにバイクの音が静まらない。 見ると,若い女性がよそ見したまま四つ角に突っ込んで来た。慌てた私は,「前,見ろ」と怒鳴ったが,次の瞬間,自転車の後ろにぶつかった。強い衝撃で倒された。バイクも倒れてプラスチックの破片が飛び散った。「すごい音がした」と言って通行人が四人ほど駆け寄った。相手の女性が座り込んだまま振り向いて「だいじょうぶですか?」と声をかけてくれたので,「足を打った」と答えた。「あなたは大丈夫ですか?」と聞くと,「腰が痛いです。介護の仕事をしていますので,前からの痛みでしょう」と言った。私は自分で起き上がった。手伝ってもらって自転車を片づけ,民家の玄関先に座り込んだ。頭を打たなかったのは幸いだった。足が痛むが歩けるので骨は折れてないと思った。その女性は茶髪のチャーミングな人だった。周りの人の問いに「30歳」と答えていた。まったく無茶な運転をする人だ。そして下手くそだ。ハンドルを少し切ってくれれば避けられただろうに,と私は思った。でも,体を直撃しなかっただけよかったと思わなければならない。「バイクは友人の物です」と聞こえてきた。彼女は市役所へ急いでいたらしい。
 十分ほどしてお巡りさんが三名来てくれた。相手の一時停止違反,前方不注意であることは明らかである。若いお巡りさんが「救急車を呼びましょう」と言ってくれたが,自分で近くの市立病院に行けると,断った。自転車は,フレームの衝突跡が少し凹んでいたが,動いた。自転車を押して,100mほど先の警察署に預け,妻に連絡して車で来てもらった。そして,妻に付き添われて病院へ行った。受け付けで事情を話すと,整形外科を指示された。ずいぶん待って診察を受け,すぐにレントゲンを撮った。骨に異常はなかった。医師は,私の脚を眺めただけで全治一週間の診断書を書いた。湿布薬をもらった。9,600円支払った。それから再び警察署に行って,調書を作成した。私は,自分は反省することはないと言い張った。
 夕方, 彼女から電話がかかってきた。 怪我の状況を話すと,ほっとした様子だった。そして,母子家庭で子供が保育園に通っていると言った。強制保険しか入ってない。手続きが大変で,実質,保険が下りるのは無理だから,自分が出す。その代わり,今後,医者にかかる時は健康保険なり,他の保険を使ってくれということだった。
 その晩,彼女が訪ねてきた。封筒を差し出されたが受け取れなかった。最中の箱を頂いて,お引き取り願った。私は小遣いの倹約を決意した。
 翌日,三か所に紫のあざが出た。これが一か所に集中していたら骨が折れてたろうと,ツキを感じた。妻に,74歳になっても骨がしっかりしていると褒められた。あざと痛みが取れるのに十日かかった。 自転車は少し車輪が傾いたが乗れる。そうやって,この事件は終息した。しかし,私は喝を入れられたのだった。事件後は,なんと,私が一番,神経衰弱が強くなった。そして,私はトランプをシャッフルして配ることが苦にならなくなった。老いの錆を落としてもらった私は,毎日,ライフワーク「星の生まれ方」に取り組んでいる。壁に掲げた「遂げずばやまじ」(「言海」の著者大槻文彦博士の心を支えた,祖父,大槻玄沢の戒語)の額を眺めている。


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