有限会社 三九出版 - 戦争の犠牲になった松の木


















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☆《自由広場》

            戦争の犠牲になった松の木

            鈴木 雅子(東京都国立市)

テレビで中高生位の娘さん達がきれいな衣装をつけて歌ったり踊ったりしているのを見ると,私はこの年頃の時,何をしていたのだろうと,つい考えてしまう。そう,戦争中だったからおしゃれやお化粧とは無縁で,和服をほどいてもんぺに縫い直し,黒か紺の地味な服に手製の防空頭巾を持って女学校へ通っていた。その学校も工場となり,機械の図面を写したり部品の組立てをしたり,授業の思い出は少ししかない。もちろん修学旅行などもなかった。中学低学年の弟は,疎開した家を壊す作業にかり出されていたっけ。 あの時代は国定教科書で教えられた事をすなおに受け入れるのが優等生で,自分の頭で考え, 疑問を持ったり批判したりするような人間は論外。 そうして軍の上層部は,無垢の子供をも消耗品のように使ったのだろう。 六月末に石川郷土史学会の村本外志雄氏の「戦時下の航空燃料、松やに松根油採取について」という発表を聞きに,金沢に行った。そのお話をもとにまとめると,先の大戦中,石川県では航空機燃料の欠乏に対応するため石油の代わりとして松根油を採掘し供出するよう陸海軍省などから命令が出て,各地で採掘が行われたとの事だ。江戸時代から防風林として植林された安宅海岸の松など,各地の千本以上の松が,海軍小松航空基地での活用を目的として採掘され(昭和20年4月),それに小中学生が動員されていたそうだ。戦争中は全国各地で,子供達までもが「お国の為」にと,勉強よりも働くことを強制されていたのである。天下の名園・兼六園でも,当時樹齢百年を超える木々のうち,まず第一次分として53本が指定された。皮をはぎ,V字型の切目をつけ,そこに竹筒を置くと松やにが一昼夜で1.5合位たまる。この竹筒を作るのは小学生の仕事で,当時小学生だったF氏の思い出――「兵隊さんのお陰です」の歌を歌いながら毎日往復20キロ歩いて,大きな竹を抱え,引きずるように学校へ運び,一節ずつカップのように切って作った,と。松根油は,松の周囲を1.5mほど掘り,根を釜に入れ蒸し焼きにし,揮発分を冷却乾溜して作るそうで,「油の切れた飛行機や軍艦はただの飾り物と同じ、油を絶やさずに送るのも銃後の大切な役目です」と,当時の北国毎日新聞には「兼六園決戦の姿」「天下の名木も松脂、松根油、船材に」「製油報国」「遮二無二造れ 軍需松根油」などの見出しが躍っている。200本の松根で, 一機一時間の飛行が可能だったとか。今思うに,はるか上空を飛ぶ敵編隊に,それで実際に立ち向かうことができたのだろうか。 松やに採取後の松は,気が衰え枯死することも多く,兼六園で現在残っているのは20数本らしい。他にも,野田山の県戦没者墓地への道路沿いに松やに採取の傷あとを 無惨にさらしている木が50本以上も見られるそうだし,安宅海岸では,1500本の松から松やにや松根油を採ったが,昭和45年までにおよそ600本が枯死したそうである。その上戦後は,マツクイムシの被害も加わって,各地で相当数の松が枯死している。残念なことである。根を掘ったあとの松は,土の中に根が残っていれば自生も可能だそうで,現在海岸海浜に見られる細い松の林はそれであろうかと推測されるという。なお今でも樹林の中に,樹齢50年もあるかと思われる松の,50センチほどに切断されたものが積まれたまま残されている所もあるそうだ。 私の実家は元禄の昔から祖父の代までずっと金沢に住んでいたので,私は戦中戦後の数年を除き,しばしば墓参を兼ねて金沢を訪れているが,そんな私も,このような出来事があったのを全く知らなかった。数年前にたまたま兼六園で松やに採取あとの説明板を目にし,こんなことがあったのかと思ったのだが,くわしいことは村本氏のお話を伺ってはじめて知ったのである。私も戦中世代なので,あの時代に生きた人の気持ちはよく分かるから,お話の内容は一々身にしみて,感慨深く伺ったのだった。 北陸新幹線効果で,金沢には観光客が押し寄せているらしい。兼六園を訪れる人もまた多いことだろう。だがほとんどの人はかつてこんなことがあったということは知らないと思う。日本がアメリカと戦ったことさえ知らない人がいるそうだから……。今,この松の傍らに立つ説明板に,若い人々はあまり心をとめることもないらしいようで,むしろその傷あとがハート形に見えるのが印象的なのか,それが人気の的となり,その横でVサインなどして(説明板は入れずに)嬉々として写真を撮ったりしているとか。そんな話を聞いて,戦中世代の昔人間の私は,暗然として言葉もないのである。皆さんがもし金沢を旅して兼六園に行かれたら,ぜひこの松に対面して,かつてこの国が行ったおろかな戦争に思いを馳せ,平和な日本に生きているのを感謝してほしい。それが犠牲となった松たちへの供養になると思うからである。
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