有限会社 三九出版 - ザビエルを日本に導いた3人の男  2.出 会 い


















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☆《自由広場》

            ザビエルを日本に導いた3人の男 2.出会い

              山本 年樹(神奈川県川崎市)

(1)聖バルバラ学院へ バスクの貴公子ザビエルは19歳の時,故郷を出てパリに留学しました。当時,セーヌ川左岸のカルチェ・ラタンには数多くのコレジオがあり,各地から4千人以上の学生が集まって,さながら学問の王府といった有様でした。その中でも英才教育で有名な聖バルバラ学院を選んだザビエルは,学院の寄宿舎に入りました。まず1年間の教養コース(ラテン語・弁論術・文章術・日常会話)を学び,その後4年間の哲学コースを修了し,哲学修士としてのデイプロマ(学位免状)を受け,ヴォーヴォア学院でアリストテレス哲学の講義をすることになりました。バスク貴族の新進気鋭の助教授として話題を呼んでいました。

(2)ロヨラとの出会い その頃,寮で同室のペドロというスイス人の若者が一人のバスク人を連れてきて一緒に住んでもよいかと言いました。彼の名は,イニゴ・ロヨラといい,ザビエルより15歳も年長でした。よれよれとなった古いトーガを着て,当時珍しい縁つき帽子をかぶり,少し足を引きずっていました。バスク人にしては変わった経歴があり,バスクの首都パンプローナでの攻防戦で,スペイン側の傭兵としてザビエルの兄たちと闘い,砲弾で足に大怪我をしたと言います。又,スペインのマンレサの洞窟で断食の苦行をしていた時,イエス・キリストの苦難のご生涯を黙想により追体験することができ,別人となって生まれ変わったとも言いました。ザビエルには別世界のような人の話であり,はじめは距離を置いて接していました。

(3)ロヨラを師とする ロヨラは毎日のようにザビエルに語りかけるようになりました。ザビエルは将来は故郷のバスクに戻って教区の人々を導きたいと考えていましたが,ロヨラは神の子イエスが示されたように世界の人々の救済に命を捧げるべきだと言いました。聖書マタイ伝の一節「人は全世界を手に入れても、その魂を失ったならなんになろうか」を援 ―20― 用して,ザビエルに回心を迫ってきました。 ザビエルの日常生活にもロヨラの心くばりがありました。厳格すぎて生徒がなかなか集まらなかったザビエルの哲学の教室が満室となったのはロヨラの手配でした。又,貴族の体面を保つための従者などの出費が必要だったザビエルに気持ち良く融通してくれたのもロヨラでした。 ある日,バルバラ学院のゴウヴェイア院長からザビエル,ロヨラ,ペドロの3人が夕食に招かれました。この学院はポルトガル国王が人材養成の為スポンサーとなっており,院長はポルトガル人でした。当時のヨーロッパのキリスト教をめぐる環境は激動していました。ドイツでプロテスタントとして新しい教義を打ち出したマルチン・ルターと院長の親友のオランダ人エラスムスの自由意志論争が話題となっていました。院長はお気に入りの3人の意見を聞きたかったようです。その席でロヨラは熱くイエスの示された道を同じように歩いてその教えを広めることを説きます。従来の教区にとらわれず,世界の涯まで行って殉死を恐れず異教徒にも福音を伝えたいと語りました。そしてザビエルはロヨラの言葉に大きくうなずきました。ザビエルは決意したのです。これからはロヨラを人生の師として何があっても彼に従ってゆくつもりでした。

(4)すべての人々の救霊を決意 8月の聖母マリアの祝日にロヨラとザビエルを中心として7人の同志が集まり,モンマルトルの丘で聖なる結束の式が行われました。 全員が一人ひとり「清貧に甘んじ、貞潔を守り、そして聖地巡礼を果します」と誓約しました。ロヨラが声高らかに呼びかけました。「わが仲間たちよ、これから我々はいついかなるときも、世界のどこにいても、お互いに離れていても、同じ旗印の下に結束した同胞である。永遠の王イエス・キリストの旗の下の兵士であり僕である。」 事実上の修道会イエズス会誕生の瞬間でした。ザビエルはもう迷いはありませんでした。これからはロヨラの指導の下,7人の同志と共にすべての人々の救霊の為に身を捧げる覚悟でした。
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