有限会社 三九出版 - ザビエルを日本に導いた3人の男


















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☆《自由広場》

           ザビエルを日本に導いた3人の男
                 4.転 進

             山本 年樹(神奈川県川崎市)

(1)インドでの布教
リスボンを出航したザビエルは1年をかけてインド・ゴアに到着しました。「東方一の貴婦人」と賛美されていた町で,“ゴアを訪れた人はもはやリスボンを訪れる必要はない”といわれていました。ザビエルは早速活動をはじめ,ゴアのみならず南方の漁夫海岸まで足を延ばして,キリスト教に改宗したばかりの地元の人々に対して,教理を一から教えていきました。この地のパラワス人は真珠採りを生業(なりわい)として,シーズンになると20メートルの海底に潜って,高品質の真珠を採ります。連日の過酷な潜水で病人も出るので,ザビエルはこの介護にもあたりました。生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授け,死者が出た家では葬儀の典礼を施します。又,子供達を集めて12ヵ条の信仰箇条を教えたり,精力的に動きまわりました。

(2)マラッカヘ
ザビエルは更に東を目ざし,海峡の町マラッカを訪れました。この町はゴア征服の翌年ポルトガルが占拠した町で,東南アジア交易の中心地となっていました。マレー人や中国人が多く,活気がある町ながら周りはすべてイスラム勢力に取り囲まれていました。風紀も乱れておりキリスト教の教えも忘れられていましたが,ザビエルは毎日病院での介護,ミサ,子供達への説教と休む暇なく働きました。ポルトガル人の子弟が学ぶ学校では教材がなくて,裁判所の判決文でポルトガル語の授業をしている有様でした。マラッカに4ヵ月滞在した後,セレベス島マカッサルの東側に広がる香料諸島の島々を訪れました。ポルトガル領の東端ながら,丁字,ナツメグなどの香料を産出する重要拠点となっていました。ポルトガルの司祭がいない未開の地でしたが,ザビエルは単身現地の集落を訪れ,村人達をキリスト教に改宗させていきました。

(3)日本人との出会い
ザビエルが2年ぶりに香料諸島からマラッカに戻り,丘の聖母教会で地元のカップルに結婚の祝福を与えていた時のことでした。知己のアルヴァレス船長が1人の男を連れてきました。彼はヤジローといい,たどたどしいがポルトガル語も話しました。ヤジローの話では「日本の薩摩の武士だったが主君を滅ぼされ商人となり,異国との交易をしていました。商売上のいさかいからつい人を殺(あや)めてしまい逃亡の日々を送っていました。知り合いのポルトガル船長に遠くの国に行きたいと頼んで,乗船させて貰ったのです。そして,私の悩んでいる様子から,マラッカに偉い神父がおられるのでお会いしたらどうかということでここまで連れてきて貰いました。船内でポルトガル語も学びました。」と言います。ザビエルはヤジローから日本のことについて聞き出します。キリスト教もイスラムもまだ入ってないこと。仏教が中国から渡来しているが経典は民には理解できず,坊主が代わりに唱えていること。民は読み書きが出来,好奇心も強いこと。ヤジローの話を聞いて,アジアの布教で行き詰まりを感じていたザビエルは,「ヤジローを道案内にして,日本に行ってはどうか。」と考えます。神の啓示のように思えたのです。
そこで,まずヤジローをインドのゴアにある神学校に入学させました。彼は日本人というハンディキャップを乗り越えて,めきめきと頭角を現し,ポルトガル語は日常会話に不自由ないぐらい上達しました。教理の方も,聖書の一部を暗記するなどその進歩はめざましいものでした。そして1年後には洗礼を受け,日本人初のカトリック信者パウロ・デ・サンタフェが誕生しました。

(4)日本へ
出発の準備を整えたザビエル,ヤジローら一行8人は,マラッカから中国船で出航しました。高波に弱い小型船で,日本行きは大きな危険がありましたが,ザビエルは意気込んでいました。ザビエルはヤジローに心境を語ります。「パウロ,商人たちが海賊などの危険を冒して旅するのに,私が神の栄光のため,魂の救済をするために旅をするのがなんだというのだ。神意が私を守ってくれる。私の使命はインドにとどまらない。地の果てまで,日本まで行く。」ヤジローも同じ思いでした。
ヤジローはもう使い慣れたポルトガル語で応えます。
「シン,サント・パドレ(はい,聖なる神父)」 


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