有限会社 三九出版 - 地図にもないソ連邦人工科学研究都市プーシノの国際会議


















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                ☆超音波医学国際会議出席異聞(19)
     地図にもないソ連邦人工科学研究都市プーシノの国際会議

            和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)

これは1989年のソ連解体以前の話である。1981年9月,ソ連科学アカデミー主催の第5回東欧超音波生物医学会議の旧知のサルバジャン会長の招待により,会議開催地の「プーシノ」という地図にもない秘密?人工生物科学研究都市を訪問し,いろいろ珍しい経験をすることになったので,その概要を紹介する。
この国際会議からの招待は,旅費,滞在費全額ソ連科学アカデミー負担の招待とのことや,サルバジャン教授の懇請もあり招待を受諾,私の「超音波の診断及び治療的利用の最近の研究」に関する2題の演題と抄録を送付した。その後,ソ連入国のためのVISA取得に招待状を持参してソ連大使館を訪ねた。大使館の係官はこの会議開催地のプーシノ(Puchshno)という都市は知らなかったらしく,類似の綴りのプシキーノ(Pushchino)というカムチャッカ半島の都市として,誤ったVISAを発行したのだった。これが後に大問題となったことは後述する。
9月5日,午後3時,アエロフロート機で成田空港出発,現地時間午後7時過ぎモスコー空港に到着した。入国管理,税関は思ったより優しくほっとした。その上,空港ロビーに,ジャンパー姿の懐かしいサルバジャン教授がニコニコ顔で出迎えていたのには,心から嬉しく安堵した思いだった。サルバジャン教授の車で,ソ連アカデミーホテルに案内された。これはソ連アカデミー関係者の専用ホテルで,後日,このホテルの出入りは検査が厳重で,ここに泊まる日本人は極めて珍しいと聞かされた。
翌6,7日,会議関係職員にクレムリン宮殿などのモスコー観光を案内して頂いた後,9月8日,午前9時,会議が開かれる「プーシノ」に向けマイクロバスで出発した。その時,米国と英国からそれぞれ一人の旧知の生物物理学者と日本から医学者の私の3名が西欧側から特別招待されたことを初めて知らされた。バスはソ連科学アカデミー本部に寄り,パスポートの検査が行われた。その途端,私だけが「貴方のパスポートの行先はプシキーノとなっている。これではプーシノには行けない」とのことで大騒ぎとなった。これは東京のソ連大使館ですら「プーシノ」なる都市を知らなかったことによるものだった。どうなるか心配だったが,サルバジャン教授の努力により,私のVISAが再発給され,目的地のプーシノに向け出発した。バスの中で,サルバジャン教授から「プーシノ」はモスコー南方約250キロの地点にある新人工研究都市との初めての説明に,我々西欧側の参加者は,事前に何も知らされていなかっただけに,一様に驚いてしまった。モスコー出発後約4時間のドライブで,プーシノ中心にある立派なホテルに到着した。周囲の遥かな丘の上に近代的ビルが散在して見られた。午後4時より,ホテルの近くの科学会館講堂で開会式が行われ,来賓の政府高官はモスコーよりヘリコプターでやって来たとのことだった。サルバジャン会長の経過報告で,「今回の会議には超音波医学生物学専攻のソ連科学アカデミー会員と東欧諸国の研究者約50名,それに西欧側から上記3名を特別招待した。このプーシノの町は文字通りの人工の生物科学研究都市で,この中には農業科学,細菌科学,生物物理学などの生物科学系の6つの研究所があり,研究員とその家族で人口約2万人が居住。この研究基地の周囲半径約50キロ以内は立入禁止,モスコーに行くには許可が必要。この新人工都市には病院,銀行,郵便局,映画館,マーケット,遊園地,託児所,幼稚園,小中高校などあらゆる施設が完備している」等々の説明が行われた。この広さは日本の首都圏中心部に相当するもので,どうしてこんなにも広い敷地と外部からの隔絶が必要か,どうも秘密研究都市らしいのではと西欧側の3名でひそかに話し合ったのだった。
この会議の参加者約50名の中で,日本からは私一人ということで,非常に目立つ存在となった。会議での私の2題の研究発表を通じ,東欧諸国の参加者に日本の超音波医学の優れた進歩を示すことができたのは幸いだった。会議の期間中に,この生物科学研究都市の全ての研究所とプーシノの町の見学が行われた。これらの研究所の規模の大きさと設備の充実さには,英米の代表すら驚くほどだった。その後,町内を散歩,マーケットや数学,音楽の特殊学校,さらに遊園地や夏にセーリングを楽しむ小川や第二次大戦の独ソ戦の勝利記念塔などを見物,驚き感心するのみだった。
9月13日,会議の閉会式後,サルバジャン教授が所長の「芸術家の家」でのお別れパーテイに招待された。この施設はこの研究都市の研究者が,勤務後に集まり,それぞれの趣味を楽しむ山小屋風のクラブだった。赤々と燃える暖炉の前でウオッカを飲み,ソ連の先生方によるギターの演奏とロシア民謡を一緒に歌いながら,共産圏内にいる恐怖も忘れる思いだった。この8年後のソ連邦崩壊により,この懐かしい広大な「プーシノ」研究都市はどうなったのだろうか。
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