有限会社 三九出版 - 明智光秀の家臣,東行澄の末裔(1)


















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☆《自由広場》 

          明智光秀の家臣,東行澄の末裔 (1)

             岡本 崇(京都府木津川市) 

 2020年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では,明智光秀が主役である。
 1582年6月,「本能寺の変」の直前に愛宕山で張行された「愛宕百韻」は有名だが,この連歌会で執筆(書記役)を務めた東六郎兵衛行澄(とうのろくろべえゆきずみ)については,全く知られていなかった。最近ようやく家臣と明記されるようになったが,東行澄の詳細を4回にわたって紹介するのでお付き合い頂ければ幸いである。 

1.桓武天皇から始まる東氏系図 
 平成6年8月7日,東京から五條市西吉野町へ帰省。序に,何十年振りかに大東市の父の実家に立ち寄る。帰り際に,従兄の大東勝之助さんが,蔵の中にこの様な物があったよと東氏系図(大東家)の家系図を見せてくれた。
 時間がないので手持ちのカメラで写させてもらう。帰宅後見ると,桓武天王↓千葉常胤(千葉家の太祖・源頼朝と入魂)↓東胤頼(東庄町で初めて東を名乗る)↓東胤行(美濃東氏初代・妻は藤原定家の孫)↓東常縁(古今伝授・美濃篠脇城主)↓東行澄(明智光秀家臣)↓東實勝(河内に蟄居・勝福寺創建)↓大東朝昌(徳川幕府に200両寄付した時に,東から大東に改姓)↓大東徳太郎(西吉野の岡本家から入婿・勝行と改名)まで,38代にわたり詳しく書かれていた。 

2.大東家の古文書 
 帰農していた東治左衛門實勝は,関ケ原の合戦が始まる前に,小出秀政(岸和田城主・妻が秀吉の生母の妹)から,初物のナスビをあげた礼に,夏の麻の着物を貰っている。ナスビは,当時は大変貴重な贈り物であったという事も驚きだが,實勝の父が,山崎の合戦で秀吉軍に殺されているのに,秀吉の叔父とその後も付き合いがあったという事にも吃驚。本能寺の変が起こる前までは,同じ織田信長配下にいたから,当然
付き合いがあっても不思議ではないが。
 関ヶ原の戦いでは,小出秀政は,次男秀家を東軍に,長男吉政は西軍に加勢させた。小出家は,本来ならば戦後に処罰されるはずであったが,秀家が東軍に属して関ケ原本戦で活躍したため,所領を安堵されている。 

3.奈良県五條市西吉野町の岡本家 
 私の父は,大東徳太郎の三男だが,昭和元年に,西吉野の岡本家に入り婿している。
岡本家も,大東家と同時期に,徳川幕府に200両寄付して,一代限り「岡本」と名乗ることを許されているが,それ以前は,松田→仁司→西と称していた。分家をする度に名前を変えているのは,徴兵逃れの狙いもあったのではなかろうか。
 江戸時代の西家は,吉野三山の一つ,銀峰山頂上部の西の峠に住んで海神神社を祀っていた。銀峰山波宝神社は神功皇后三韓征伐の帰路立ち寄ったと云う伝承があり,有栖川宮祈願所でもあった。
 廃仏毀釈時や無住職時代に,岡本家でも保存してきた,如来立像(八世紀統一新羅時代)が,国重要文化財に指定(平成22年6月)されて,奈良国立博物館仏像館に常設展示されている。
 明治維新の魁,「天誅組の変」の時は銀峰山も本陣となり,岡本家で中山忠光主将たちが宿泊し,忠光の証文(賀名生の里歴史民俗資料館に展示中)を三通頂いている。証文の中には,賊徒(徳川幕府)征伐の暁には褒章を取らせると書かれている。 

4.御大典記念昭和名鑑にも大東家の名前がある 
 平成15年10月31日,福井康子(私とハトコ)さん,豊田佳子(母と従妹)さんが,康子さん,鉄谷明美(私とハトコ)さんとで自費出版されたばかりの,「大阪帝国大学創立史」(西尾幾治著)の私家復刻版を持参して橋本市の拙宅に来て下さった。
 母も私も初対面であった。その時,野口郡太(十河存保の甥,野口万五郎冬長,三好長慶の末弟ゆかりの家)から始まる家系図のメモを添付しておられたが,その中には,「淺田周弘」という名前が記載されていた。(戸籍名は淺田兼弘だが。)
 平成16年10月,私は,京都府木津川市に終の棲家を建てて,21度目の引っ越しをして,橋本市や東京から移り住む。
 平成17年5月、京都府立山城郷土資料館友の会の「古文書教室」へ入る。教材は,「おでんちゃんの寺小屋規則」(浅田家文書)だった。その教室には,「おでんちゃん」の家の末裔である,木津川市山城町上狛の淺田周宏氏も来て居られた。 (次号へ続く) 
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