有限会社 三九出版 - 91歳,ボケる前に書き残しておこう


















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☆好齢女盛(こうれいじょせい)もの語る  

          91歳,ボケる前に書き残しておこう 

             鈴木 雅子(東京都国立市) 

 昔こんな時代があったのだが,今では知らない人が多いと思うので書き残しておこう。昭和十(1935)年代の小学生の頃,支那事変(日中戦争)が始まり,毎月一日(ついたち)は興亜奉公日(こうあほうこうび)といって,その日のお弁当は戦地の兵隊さんをしのんで日の丸弁当(白いご飯の真ん中に梅干し一つ。おかずなし)と決められていた。(給食などという事のない時代の話)ただ思い返すとその頃はまだ誰もが白米のお弁当を持ってくることが出来たのだが,そのうち干うどんを細かく切ったものが混じった米とか,煎り豆や豆かす入りの米とか……。地方では白米のご飯が食べられていたらしいが,東京ではそんなご飯は夢となってしまう。野菜や魚などもみな配給制となり,ある時,十センチ位の大根と数匹のイワシを我が家の分として貰い,家族四人で大喜びして食べた事を今でも忘れない。思い返すとそれでもまだその頃はとにかくお米が食べられただけでも有難かった。米国との戦争がつき進んだ頃になると,少ない米を雑炊にして食いのばし,サツマ芋とか雑穀の粉のすいとんや煎り豆などが主食となってゆくのだ。また興亜奉公日には全校生徒が氏神様の白山神社に行き,参拝してから学校に戻り授業を受けた。朝礼で校長先生が「○○さんのお父様がアッツ島で戦死なさいました。」と報告されたこと等も忘れられない。戦死を美化した玉砕(ぎょくさい)という言葉とか,また「敵戦艦を轟沈(ごうちん)せり」などと勇ましい言葉も生まれ,子供心に日本軍はすごいんだと思わされた。
 女学校時代は次々と千人針(兵隊さんが弾丸除(たまよ)けに腰に巻く布。女達が赤糸で玉結びを縫いつける)が廻ってきたし,戦地に送る慰問袋を数班に分かれて皆で相談し色々持ち寄って作った。当時「愛国百人一首」というのが出来て,私は百首を全部書いて入れたりした。どんな歌があったかもう忘れてしまったが……。入れた手紙に返事が来て何度かその兵隊さんと手紙のやりとりをした。千葉出身の方だった。その手紙は後に戦時中の絵日記と共に〝昭和の暮らし博物館〟に寄附した。
 夏休みの宿題は廃物利用だった。私は使い終わったノートに新聞記事を切り抜いて貼って褒められたっけ。「足らぬ足らぬは工夫(くふう)が足らぬ」という標語のもと,決戦料理・東亜献立・食物総力戦などの見出しが躍り,「雑草は食料予備軍」だと,野草の食べ方とか代用食の色々とかの記事が多くなった。フライパンで雑粉のホットケーキを焼く時,貴重な油をひく代わりにカボチャの葉を敷き,そこに溶いた粉を入れると鍋にくっつかないとかの工夫。あの頃はどこの家でも庭をつぶして代用食のカボチャを育てていたものだ。サツマ芋の葉や茎も食べようと言われ,葉のお浸(ひた)しは結構おいしかった。ハコベは昔飼っていたセキセイインコの餌に摘んだものだったが,そのお浸しは余りおいしくはなかった。 休み時間に教室で穴のあいた靴下に継ぎを当てていたら(靴下の中に古電球を入れてするとやり易いのだ)皆も真似して継ぎ当てをするようになったり――今では考えられない事だろう。もう一つ思い出した。二年か三年の時,勤労奉仕で陸軍省に行き,書類の清書をさせられた。私の担当は戦死された方の名簿だったが,多くの方が「戦争栄養失調症」で亡くなっていた。 当時はそういう病名と思ったのだが, あれは餓死だったのだ! 口に入れる物が無く餓死された兵隊さんを思うと胸が痛む。戦争は絶対にいけないと痛切に思う。
 戦争のため,私達は修学旅行は出来なかったから,その思い出はない。空襲警報が発令され,冷たい廊下に長い間,解除を待ってしゃがんでいた事,お手洗いにも行けず我慢していた事など(沖縄の女学生たちに比べると大した事ではなかったとは思うが)時折ふいと思い出す。ちゃんと勉強したのは二年生位までで,勤労奉仕の事は覚えているのに授業の記憶は余り無いから,ほとんど勉強はしていなかったのだと思う。もちろん働くことも大事なのだが,若い時に基礎となる勉強がおろそかにされた事は,それに従わざるを得なかった私共世代の大きな後悔である。ただその後にそのマイナスを取り戻すべく努力しなかった私自身が悪いのだとは重々分かってはいるのだが……しかし本当にくやしい。
 卒業後何十年かたって,生き残った仲間で,出来なかった修学旅行代わりの小旅行をしたりもした。しかし親や夫の介護等で,集まる人は僅かで,だんだんその友達も亡くなってゆき,一昨年・昨年はその小クラス会をしようという相談もなかった。そう,まだ生きている者はみんな91・92歳になるのだから。あの戦争の銃後の体験者は一人二人と消えてゆき,やがてその記憶は忘れられてしまうのだろう。今私はよたよたしながらも自分の足で歩けるので,転ばないよう気を付けて病院や買い物に行く。人様に助けられてのおかげ様での人生。与えられた余生に感謝してもう少し頑張って生かされて行こう。有難うございます。 
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