有限会社 三九出版 - 還暦盛春   三百年の掟やぶり


















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還暦盛春       三百年の掟やぶり
              長尾 貞紀(宮城県仙台市)

日本酒の銘にはお相撲さんのしこ名のような面白いものがある。最近山形市の「三百年の掟やぶり」という少し長い銘の酒を入手した。一升瓶であった。「しぼりたて生酒」「本醸造無ろ過槽前(ふなまえ)原洒」「要冷蔵,日本酒度+7,アルコール分19度以上20度未満云々」のラベルが貼ってあった。さらに社訓として蔵酒はすべて濾過して出荷していたが,消費者からの要望によりこの掟を破り冬季の寒しぼりの期間に限定して発売したとあった。
本題に入るが酒の話ではない。この一升瓶の包装は意外にも古新聞であった。ぴっちりとかたく包み込まれており,その上にこれらのラベルがきれいに貼られてあった。この古新聞をたまたま見たところ,山形新聞平成21年10月25日付で,日曜随想欄に米沢市芸術文化協会会員遠藤岩根氏による「読書の秋」があった。氏は読書についての学生との交流,白寿の恩師の話,福島県矢祭町の「もったいない図書館」などについて述べておられたが,この随想の冒頭に印象深い記載があった。
『読書についての名言は多くあるが,私が小学生のころ,吉田茂総理の懇請により文部大臣になられたこともある天野貞祐のことばが忘れがたい。すなわち「読書は自然的な時間と空間を超した世界である。そこでは過去も現在である。古代も現代である。外国も自国である。遠い世界が自己の書斎の内にある。そこで私たちは遠い時代の詩人たちとも,遠い国々の哲学者ともまことに心おきなくゆっくり,静かに語ることができる。その国には聖者が,哲学者が,詩人が,英雄がいる。彼らは私たちと一緒になって喜び,憤り,悲しむ」と。なんと哲学者カントの研究者としても知られる先生らしい定義であることか。』とあった。
この一節は本誌を読まれる方がたには周知のことかもしれない。しかし小生にとって,文部大臣天野貞祐の名は知っていたが,この言ははじめてのことであった。小生は長らく自然科学の分野に身をおいてきた。眼に見えるものを信じ,見えないものは心に残らなかった。そして「先へ」,「先へ」と,追い立てられるようにこの分野の書を読んでいたような気がする。小説,詩,哲学書などのジャンルのものはほとんど読まなかった。一年ほど前に現役を引退し,これを機会にこれまで全く未知の,こうした人文科学の世界を垣間見てみたいと考え,そうすれば‘残り’の自分の世界は今のままでいるよりももっと広く,深くなるのではないかと思っていた矢先にこの言に接し,本の読み方を改めて教えてもらったような気がする。全く新しい分野の書を,けっして急ぐことはなく,この言のごとく,ゆっくりと,心おきなく,一語一語かみしめながら,先人と対話しながら読んでみたいと思ってはいる。しかし,これまでに多年にわたり培った(培われた?)自分自身の思考の仕方,いわば70年(歳)にわたるこの縛り,知らず知らずのうちに身に付いたこの‘掟’から離れられるであろうか。「三百年の掟やぶり」を飲みながら,考えていた。
これが空瓶になって間もなく,フランスの作家サン=テグジュペリによる.『星の王子さま』に接する機会があった。わずか20行はどの仏文である。もちろん和訳はついているが,いつものように読み(発音し),ひとつひとつ単語を調べ,構文を考え,文章としての発音をし,自分なりに翻訳を試みた。最後に,編者の選んだ作者の短い言葉が掲載されており,原文は割愛するが,これは『心でしかよく見えない。大切なことは目には見えない。』とあった。これも同様にして自分なりに翻訳し,この本を閉じてしまった。しばらくして,本当にしばらくしてこの言葉はまさに,まさに小生のこれまでの本の読み方,思考の仕方に対して,言い聞かせているのではないかと,はたと気付いたのは,この原文を暗誦しながらの散歩中のことであった。70年の掟破りにやっと踏み込んだのであろうか。
〔追記〕
私は本年4月より晴れて(?)大学生となった。某総合大学文学部,社会人枠の科目等履修生という身分で入学を許可された。一日一講義90分,一週三日である。若い学生諸氏と机を並べている。キャンパスは山の中。といっても街からバスで15分ぐらいの所で,5〜6階建ての建物と同じぐらいの高さの木々が繁り,全体として林の中にある感じである。ここにたくさんの研究棟,講義棟,大きな図書館,そのほか食堂,学生ホールなどがある。教官,若い学生諸氏がたくさん行き来して,まさに学問の府という感じである。こうしたキャンパスライフは今の小生にとってとても新鮮である。予習,復習,試験の準備が大変だが,若い学生諸氏の邪魔にならないよう,もう少し続けたいと思っている。
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