有限会社 三九出版 - 好齢女(こうれいじょ)盛(せい) もの語る 母と嵯峨(愛新覚羅)浩さん


















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《好齢女(こうれいじょ)盛(せい) もの語る》 
          母と嵯峨(愛新覚羅)浩さん


          白川 治子(神奈川県横浜市)



 元満洲皇帝の弟・愛新覚羅溥傑と浩(ひろ)さん夫妻の長女・慧生さんが天城山で心中したのは,昭和32(1957)年12月である。その時母は,新聞を読みながらため息をついた。「ひろさん,お可愛そうに……」「なによ,ひろさんなんて,馴れ馴れしく」「あら,話さなかったかしら。ひろさんとは三郎助先生の画塾で仲良しだったのよ」
 母から嵯峨(後の愛新覚羅)浩さんとの関わりを詳しく聞いたのは,この時が初めてだった。第1回の文化勲章を受章した岡田三郎助の画塾に通っていたことは,何度も耳にしていたが,画塾でおしゃべりしていた相手が,慧生さんの母親とは思いもよらなかった。母と浩さんが画塾に通いだしたのは昭和7(1932)年で,女学校を卒業したばかりの同い年。筆を動かしながらも,好きな本やファッションの話に興じていたという。身分の違いを意識することもなく,「ひろさん」「ふさこさん」と呼び合っていた。
  慧生さんと大久保君が心中したのは,学習院大学2年生の時。父の溥傑は中国共産党に抑留の身,母の浩さんと2人の娘は,横浜・日吉の嵯峨公元(浩さんの弟)の家に身を寄せていた。「慧生さんは親しい友人に“お母さまのように他人の意思に動かされて結婚したくない”ともらしていた」と新聞記事にある。
 「お母さまのような結婚」とは,次のようなものだった。日本が清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀を満州国の皇帝にしたのは,昭和9(1934)年。軍部はさらなる絆を深めるために,日本の士官学校で学んでいた弟の溥傑と日本人を結婚させたがっていた。花嫁候補に名指しされたのが,嵯峨侯爵の長女・浩さんである。
 溥傑は自伝で「見合いではあったがお互いに一目惚れだった」と書いている。浩さんの自伝「流転の王妃」にも「穏やかで学者風の真面目なお人柄に、ひかれた」とある。しかし事実は,少し違っている。
 浩さんは,政略結婚の話が持ち上がったときも,岡田三郎助のアトリエで絵の勉強を続けていたが,母は2人の幼子がいたので,画塾どころではなかった。でも,ときどき顔を出して,浩さんや画塾の人たちと交流を続けていた。
 お2人が結婚したのは昭和12(1937)年4月だが,その年に私の父が仙台に転勤になった。仙台に越す前に母が画塾に挨拶に行った時に,秘書のUさんから次のような話を聞いた。
 「結婚がお決まりになった時にね。ここにいらして,泣いて泣いて大変だったのよ。大人があんなに泣くものかと思いましたよ。お気の毒で見ていられなかったわ」
 このようないきさつがあったとはいえ,ご結婚後は非常に仲むつまじかったようだ。ところが,平穏な結婚生活もつかの間,3ヶ月後の昭和12(1937)年7月7日,北京郊外の盧溝橋で砲声が響いた。日中戦争のはじまりである。夫の国と妻の国が戦火を交えたのだ。
日本の敗戦で,満洲国解体,中国人民共和国設立と,大陸は激動の時代に入った。溥儀と溥傑の兄弟は中国共産党に捕えられ,戦犯管理事務所に入所。娘2人を連れた浩さんは,文字通り「流転の王妃」となり,苦難の末に日本にたどり着いた。
 離ればなれになった家族が再会出来たのは,別離から16年後の昭和35(1960)年。溥傑は,周恩来の尽力もあり特赦された。慧生さんが命を絶ってから3年後のことだ。16年ぶりに夫と再会した時に,白木の箱を見せねばならなかった浩さんの気持ちを思うと「ひろさん,お気の毒に……」と私も口から出てしまう。再会後の2人は,北京で暮らし始めたが,文化革命では真っ先につるし上げられるなど,またもや時代に翻弄された。
 母は,文化革命終了直後の昭和56(1981)年に,観光で北京を訪れている。「元満州国皇帝の弟夫婦は,お元気かしら。差し支えなければお会いしたいのです」とガイドに頼んだところ,「そんな人達,名前も聞いたことない」と言われたという。 最後にとっておきの話。画塾に通い始めてまだ間もない頃だが,母が風邪をひいて,お稽古を休んだことがある。心配した浩さんが手紙をくれた。封筒の裏には「嵯峨浩」。男性からの手紙だと勘違いした祖母は,娘が見る前に開封してしまった。祖母ならずとも,誰もが「ひろし」と読んでしまう。
 「手紙は残ってないの?」「空襲で焼けてしまったのよ」。母は簡単に手紙を捨てる人ではない。それだけに,その後も何通か交わした手紙類が残っていないのは残念だ。一緒に撮った写真もなければ手紙もなく,浩さんと友人だった証拠は何一つない。
 母と同い年だった浩さんは1987年,夫の溥傑氏も1994年にお亡くなりになった。
 
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