あの町この街贋ふるさと記? I 市 K 町
小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)
「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」(「室生犀星詩集」岩波文庫)と書いたのは室生犀星である。身を遠くに離そうが近くに置こうが,わたしには「ふるさと」がないというのが長い間の覚悟であった。たぶんその思いはこれからも変わらないとおもう。が,それではこころが荒涼とした風景のなかに宙づりにされているような気がしてあまりにも寂しい。これがあるひとの言った「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」のおのが身への現証かと尠(すこ)し狼狙。そこで〈贋ふるさと記〉と題して虚実取り交ぜて「願望」のふるさとを書いてみることにする。
〈贋ふるさと記〉の第一は,I市のK町。いまは思い出すことも尠(すくな)い,母方の在所である。昭和19年の秋に戦時疎開。昭和28年に旧国鉄に就職してそこを離れるまで,いわば少年期の終わりから青年期の入口までそこで暮らした。だからここを〈ふるさと〉とよぶことに躊躇(ためらい)はない。それにもかかわらず,わたしにはふるさとがない,という思いは捨てられない。
わたしには〈原(・)ふるさと〉とでも名づけたい場所がある。特定の土地を想定しているわけではない。たとえば,奈良や京都の行きずりの小路。あるいは東京の荒廃した街の裏通り。もちろんそうした歴史のある町や先端都市の暗部にだけ郷愁のふるさとをもつわけではない。見知らぬ小さな町の,小さな子供たちのなにげない言葉や行動の中に〈ふるさと〉をみることもある。考えてみれば,それらはすべてわたしのこころの中にある〈幻影〉を母胎としているのかもしれない。つまりそれは〈不在〉であることによってわたしに憧憬をいだかせる〈ふるさと〉である。だからこそ,それはわたしのこころの裡の〈ふるさと〉になり,犀星の悲しみが伝わってくるのだ。
ところで,わたしはK町でふたりの精神障害者に出会った。ひとりは土地者で,上の家とよばれる,土地の豪農のひとり息子だった。子供の頃から秀才といわれ,町の中学校開校以来ただひとりの東京帝国大学生となったが,入学2年目の春に精神が崩壊した。勉強のし過ぎだったのだろう,というのがもっぱらの噂だった(勉強のし過ぎで精神を病むものだろうか?)。ともあれ,かれはまことにおとなしい人間で,かすり模様の着物を着て,毎日自由気ままに歩き廻っていた。かれには不思議な行動パターンがあって,三歩あるくと両足を揃え,その場でピョンと跳躍するのである。もちろんその行動自体が異常のシグナルであるが,それがなければだれもかれを精神障害者とは気づかなかっただろう。
もうひとりは女性。余所者で,つねに赤い地の派手な着物を着て,歯ブラシで歯を磨いていた。そのせいで彼女の口はいつも白く泡をふき,その外側は粉白粉を塗ったように乾いていた。彼女は家々を門付けしてまわっていたが,食べ物のほかに必ず歯磨粉を強請(ねだ)った。ある日,彼女はとつぜん町から姿を消した。青年団の若者が悪さをして彼女に子供ができたという噂が流れた。町の者はすぐに彼女のことを忘れたが,わたしはずいぶん長い間,(それは間違いなくわたしひとりだったとおもうが)彼女の再訪を待ち望んでいた。わたしは彼女のことをひそかに〈アメノウズメ〉とよんでいた。そう名づけたのには理由はない。ただ名づけの根拠はある。そのころ,わたしは子供向けに書かれた『古事記』に夢中になっていたのだ。
当時,わたしは中学生で,家の貧しさに物質的・精神的に追いつめられて,毎日鬱鬱とした気分で過ごしていた。そんなわたしにとってかれらはたぶん自由な天使に見えたのだ。いまならそれはずいぶんと身勝手な,しかも偏向した認識だと自己嫌悪に身震いするが,当時は,三歩あるいて跳びはねる,かれの天真爛漫な行動にどれほど癒しをもらったことか。また,屈託なく歯ブラシで歯を磨く彼女にどれほど慰めをあたえられたことか。わたしはかれらの〈無償の行為〉に人生の同伴者を夢見ていただけでなく,外部を遮断して自己にのみ向かうかれらの〈純粋行為〉におのれを保持する秘法を見ていたのだ。しかしいま思えば,こころを病んだかれらを自由に徘徊させ,それを温かく見守っていた町のひとたちもまたわたしの慰安の源泉だった。その温もりのあるところ,そこが〈ふるさと〉そのもの。つまり〈贋ふるさと〉などと斜に構える必要はない。小さな縁(ゆかり)が見つけられればそこがわたしのふるさとなのだ。
ところで,歯磨きの彼女を〈アメノウズメ〉と名づけたことについて思い出したことがある。K町の南端にひとびとが通称〈T山〉とよぶ小山があり,その頂上に弟橘比売命を祀った神社がある。それは東(あずま)の淡(あわ)の水門(みなと)へ渡る海峡――いまの浦賀水道で嵐に遭った日本武尊が,后の弟橘比売命を海神に捧げたという『古事記』の日本武尊東征に由来する神社で,そこには事件の7日後に海岸に流れついた后の櫛を納めたという小さな祠があった。子供のときにその祠を開けるという悪戯(いたずら)をしたが,もちろん櫛などあるはずもなかった。そこで思うのだが,狂女を〈アメノウズメ〉とよんだのは,子供のころに読んだ『古事記』の天石屋戸の「踊る女神」を彼女に重ねたのだ。ならば胸張って言おう,T山はわたしの〈ふるさと〉のシンボルだ,と。
小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)
「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」(「室生犀星詩集」岩波文庫)と書いたのは室生犀星である。身を遠くに離そうが近くに置こうが,わたしには「ふるさと」がないというのが長い間の覚悟であった。たぶんその思いはこれからも変わらないとおもう。が,それではこころが荒涼とした風景のなかに宙づりにされているような気がしてあまりにも寂しい。これがあるひとの言った「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」のおのが身への現証かと尠(すこ)し狼狙。そこで〈贋ふるさと記〉と題して虚実取り交ぜて「願望」のふるさとを書いてみることにする。
〈贋ふるさと記〉の第一は,I市のK町。いまは思い出すことも尠(すくな)い,母方の在所である。昭和19年の秋に戦時疎開。昭和28年に旧国鉄に就職してそこを離れるまで,いわば少年期の終わりから青年期の入口までそこで暮らした。だからここを〈ふるさと〉とよぶことに躊躇(ためらい)はない。それにもかかわらず,わたしにはふるさとがない,という思いは捨てられない。
わたしには〈原(・)ふるさと〉とでも名づけたい場所がある。特定の土地を想定しているわけではない。たとえば,奈良や京都の行きずりの小路。あるいは東京の荒廃した街の裏通り。もちろんそうした歴史のある町や先端都市の暗部にだけ郷愁のふるさとをもつわけではない。見知らぬ小さな町の,小さな子供たちのなにげない言葉や行動の中に〈ふるさと〉をみることもある。考えてみれば,それらはすべてわたしのこころの中にある〈幻影〉を母胎としているのかもしれない。つまりそれは〈不在〉であることによってわたしに憧憬をいだかせる〈ふるさと〉である。だからこそ,それはわたしのこころの裡の〈ふるさと〉になり,犀星の悲しみが伝わってくるのだ。
ところで,わたしはK町でふたりの精神障害者に出会った。ひとりは土地者で,上の家とよばれる,土地の豪農のひとり息子だった。子供の頃から秀才といわれ,町の中学校開校以来ただひとりの東京帝国大学生となったが,入学2年目の春に精神が崩壊した。勉強のし過ぎだったのだろう,というのがもっぱらの噂だった(勉強のし過ぎで精神を病むものだろうか?)。ともあれ,かれはまことにおとなしい人間で,かすり模様の着物を着て,毎日自由気ままに歩き廻っていた。かれには不思議な行動パターンがあって,三歩あるくと両足を揃え,その場でピョンと跳躍するのである。もちろんその行動自体が異常のシグナルであるが,それがなければだれもかれを精神障害者とは気づかなかっただろう。
もうひとりは女性。余所者で,つねに赤い地の派手な着物を着て,歯ブラシで歯を磨いていた。そのせいで彼女の口はいつも白く泡をふき,その外側は粉白粉を塗ったように乾いていた。彼女は家々を門付けしてまわっていたが,食べ物のほかに必ず歯磨粉を強請(ねだ)った。ある日,彼女はとつぜん町から姿を消した。青年団の若者が悪さをして彼女に子供ができたという噂が流れた。町の者はすぐに彼女のことを忘れたが,わたしはずいぶん長い間,(それは間違いなくわたしひとりだったとおもうが)彼女の再訪を待ち望んでいた。わたしは彼女のことをひそかに〈アメノウズメ〉とよんでいた。そう名づけたのには理由はない。ただ名づけの根拠はある。そのころ,わたしは子供向けに書かれた『古事記』に夢中になっていたのだ。
当時,わたしは中学生で,家の貧しさに物質的・精神的に追いつめられて,毎日鬱鬱とした気分で過ごしていた。そんなわたしにとってかれらはたぶん自由な天使に見えたのだ。いまならそれはずいぶんと身勝手な,しかも偏向した認識だと自己嫌悪に身震いするが,当時は,三歩あるいて跳びはねる,かれの天真爛漫な行動にどれほど癒しをもらったことか。また,屈託なく歯ブラシで歯を磨く彼女にどれほど慰めをあたえられたことか。わたしはかれらの〈無償の行為〉に人生の同伴者を夢見ていただけでなく,外部を遮断して自己にのみ向かうかれらの〈純粋行為〉におのれを保持する秘法を見ていたのだ。しかしいま思えば,こころを病んだかれらを自由に徘徊させ,それを温かく見守っていた町のひとたちもまたわたしの慰安の源泉だった。その温もりのあるところ,そこが〈ふるさと〉そのもの。つまり〈贋ふるさと〉などと斜に構える必要はない。小さな縁(ゆかり)が見つけられればそこがわたしのふるさとなのだ。
ところで,歯磨きの彼女を〈アメノウズメ〉と名づけたことについて思い出したことがある。K町の南端にひとびとが通称〈T山〉とよぶ小山があり,その頂上に弟橘比売命を祀った神社がある。それは東(あずま)の淡(あわ)の水門(みなと)へ渡る海峡――いまの浦賀水道で嵐に遭った日本武尊が,后の弟橘比売命を海神に捧げたという『古事記』の日本武尊東征に由来する神社で,そこには事件の7日後に海岸に流れついた后の櫛を納めたという小さな祠があった。子供のときにその祠を開けるという悪戯(いたずら)をしたが,もちろん櫛などあるはずもなかった。そこで思うのだが,狂女を〈アメノウズメ〉とよんだのは,子供のころに読んだ『古事記』の天石屋戸の「踊る女神」を彼女に重ねたのだ。ならば胸張って言おう,T山はわたしの〈ふるさと〉のシンボルだ,と。
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