有限会社 三九出版 - 【隠居のタワゴト】  『メモ風旅日記・千葉』


















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――【隠居のたわごと】――

        『メモ風旅日記・千葉』

          小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)

 陽炎遊郭(仮名)。それは住宅地の路地にある小さな公娼街だった。なぜそんなところに公娼街があったのかわからない。店は全部で7・8軒だったとおもう。当時はやりの青線(非公認特殊飲食店)ではなく,正真正銘の公娼街だった。しかし場所が場所だから店の案内灯は控えめ,嬌声もめったに聞こえず,そこに住むひとたちは昼の外出にも神経をつかっている様子だった。友人に連れられて,その公娼街をはじめておとずれたときのことはいまでも鮮明に覚えている。昭和27年の秋のことだった。
 店の入口を入ると,そこは広さ6畳ぐらいの座敷。その一隅にある帳場に中年女がひとり座っていて,そこで玉代を支払うと,すぐに二階の小部屋に案内された。もちろん友人とは別室。部屋に案内される途中,病院にいるようなにおいがした。のちに,あいかたそれはお手洗いに常備されているクレオソートのにおいだとわかった。やがて敵娼(あいかた)が部屋に入ってきた。わたしが彼女に東北地方の訛があることを指摘すると,彼女はやや恥じらいながら山形の出身だと言った。その日から女友だちを見るわたしの目が変わった。彼女たちの無邪気さの奥にある女の<性>に不気味さを感じながらも,もはや肉体への執着なしに彼女たちに接することができない自分がそこにいた。それがわたしの性の旅のはじまりだったのだ。
 千葉という街はわたしの性の歴史の原点である。わたしは陽炎遊郭を出発点にして性の旅を重ねた。女を騙したこともあったが,女にもいやというほど騙された。清潔な愛も,どろどろの愛もあった。ずいぶん無駄な時間を使ったような気もするが,いまではそうした女性遍歴もまた人生という旅の一部だったという気がしている。そしてそれらの女たちについていえば,遠い日のこととして,川端康成が『雪国』で書いたように「この指が覚えている」という感覚の世界の記憶になっている。
 話は変わるが,わたしは千葉ではよく引っ越しをした。わたしは房総半島のほぼ中央にある小さな町の高校を卒業すると,国鉄(現在のJR東日本)に入った。それを契機に千葉市内に出てきたのだが,千葉市郊外のY町を皮切りにB町,I町,N町,T町,あと数箇所を転々とした。これもわたしの小さな旅であった。そこで見たのは人間の風景である。
 B町では6畳一間の間借り。台所は大家との共用で自炊生活だった。大家は夫婦ふたり。夫はK通信社のカメラマンで,奥さんは京都言葉で話す美しいひとだった。入居して半年ぐらいたったある日,奥さんの悲鳴がしたので,何事かと隣の部屋に飛び込むと,夫が奥さんに乱暴していた。夫は精神に異常をきたしていたのだ。奥さんの要請で精神病院の車を呼び,強制的に入院させた。あとで聞いたところによると,わたしが入居する以前から仕事の重圧で精神を病んでいた夫は,わたしと奥さんの仲まで疑っていたそうで,奥さんの介護も限界に達していたのだという。
 I町のアパートではひとりの小説家と知り合いになった。地元紙に推理小説を書いていた,世間に知られている小説家ではなかった。ある夜,奥さんがわたしの部屋に,匿ってくれ,といって飛び込んできた。その日からそんなことがたびたびあった。奥さんに聞くと,薬物の多量摂取による中毒で,薬が効いているうちは別に問題はないのだが,切れると妄想・幻覚がおこり,奥さんを噴(さいな)むのだという。たぶん夜の騒動がなければそれとわからなかったのかもしれないが,騒動の繰り返しの中でかれの神経がボロボロになっているのは見てとれた。しばらくしてわたしは仕事の都合で転居し,かれに会うこともなくなった。だいぶ経ってから人伝てに,奥さんがかれを精神病院に入院させたことを聞いた。
 このふたつの出来事は<性>の旅とはちがう<人間>の旅をわたしに見せてくれた。カメラマンはファインダーの中から人間や事件を見つめる旅,小説家は文章で人間や事件を見つめる旅をしてきたのだ。このふたりの人間は,いわゆる生活者の人生という旅に加えて,カメラマンと小説家というもうひとつの人生を生きてきたのだ。われわれふつうの人間の人生もずいぶんとつらい。ましてや,ふたつの人生を旅する者が背負う重圧がかれの精神(神経)を壊さないという保証はない。もちろん健全なカメラマンや小説家も多いだろう。それにふたりの場合は人間の気質の問題であったかもしれない。しかし,かれらが選んだもうひとつの人生という旅が,まったくふたりの精神(神経)に打撃を与えなかったとはいえない,まちがいなく打撃を与えた,とわたしは思った。なぜなら,そのころもの書きになろうという夢をもっていたわたしには,ふたりの仕事の苛酷さが直覚的に理解できたのだ。その衝撃でまもなく瘧(おこり)が落ちるようにもの書きになるわたしの夢が消えたのは小さなおまけの話である。
 旅は地図の上の旅だけではない。芭蕉もいうようだ「月日は百代の過客」である以上その時間の上に生きる人間もまた人生という旅を生きている。千葉に宿り,陽炎遊郭に遊び,カメラマンと小説家の狂気を見たのも,わたしの人生という旅の一里塚でしかない。しかしそれは二度とそこに還ることのできない一点でもある。
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