miniミニJBUNSHI 友達,仲間のこと
竹村 雅史(群馬県高崎市)
小惑星イトカワから微粒子を運んできた「はやぶさ」,宇宙ステーションへ貨物を運びこんだ「こうのとり」が話題となっております日本のロケット技術は,昭和30年から緯度・経度の交差する絡みで秋田市近郊の道川の海岸で,東京大学生産技術研究所の糸川教授が実験した30センチメートル程のペンシルロケットがその原点です。それがラムダー,ミューと機体も大型化し,発射場所もより広い鹿児島県の内之浦,種子島へと移り,ロケット本体も巨大化したH−?型へと発達していきましたが,私は昭和30年代に秋田市で高校時代を送っていたお陰で,母校で糸川教授にしていただいた講演を聴くことができました。
私はそのロケット技術の原点が生まれた秋田県の,北の端,十和田湖の側の鉱山町小坂で中学の半ばまで育ちました。当時,秋田県は高校の学区制が北・中央・南の3つに分かれていて,居住地の他の学区へは行けませんでしたので,私は秋田市の叔父の家に置いてもらい,目指す高校へ入りました。その頃の秋田県内の高校では,ラグビーなら「秋田工業」へ,サッカーなら「秋田商業」へというように,高校で強い運動部の色分けがありました。私が入学した「秋田」は剣道,柔道,野球の強豪校(バスケットの「能代工業」はもう少し後からのことです)で,私は柔道部に入りました。入部した時は3年生が1名,2年生は7名に対し,1年生は県の中学大会での優勝校,準優勝校,3位校のキャプテンをはじめ,県大会に出た自称腕自慢の30名も入部しました。96畳の道場が狭く感じるぐらいでしたが,それが1学期の中間テストが終わり,初めての合宿に入る頃は1年生が6名に減ってしまいました。そのため,道場がゆったり使えるようになり,機動隊や秋田鉄道管理局,秋田大学等との稽古も十分できるようになりましたが,合宿での食事作りは稽古の合間に1年生がやることになっていましたので大変でした。しかし,同期生の中でも特に部の合宿で3年間同じ釜の飯を食った仲間との絆は強く,今でも切れることはありません。
高校卒業後は群馬県の公立大学に進みましたが,部活仲間や下宿仲間,それに飲み仲間など,沢山の仲間ができました。特に,一地方の大学なのに北海道から沖縄までの全国各地から集まった学生が多数を占めている大学でしたので,幅広い地方の人達と仲間になることができたことは,私にとって幸運なことでした。
その一つの“飲み仲間”は未だに年に一度は何処かへ旅行をするという形で酒を酌み交わしています。その中の東京都出身の菊池,梨羽,愛媛県出身の近藤の3君は山岳部で,卒業後にヒマラヤ遠征(昭和58年ヌンプール峰への冬期登頂)をしています。その時の総隊長は山岳部の先輩で部のOB会長でもある斉藤さんで,菊池君がアタック隊長,梨羽君が記録担当のアタック隊員,近藤君が資金や物資集めの支援隊長として活躍しました。(これが縁で,菊池君はネパールに学校を作って農業の指導をするというボランティア活動を永年にわたって行っています。)ただ,その母校の山岳部は次第に部員が少なくなり,今では既に廃部となっています。名峰が近くに並ぶ群馬の大学なのに,寂しいかぎりです。
私は柔道部でしたが,“飲み仲間”の中にも地元群馬県出身の関根君,香川県出身の林君などの同じ柔道部だった仲間がいます。当然のことですが彼等にもまた卒業後は紆余曲折があり,それらについても“飲み仲間”の集まりでは話の花として咲きます。そしてその花たちは私に刺激と,少なからぬ影響を与えてくれました。
“飲み仲間”だけではありません。大学の同期会を5年毎に行っていますが,一昨年の5月,卒業45周年を記念して文集を発行しました。私はその編集委員の一人でしたが,発行の準備が2007年から始まりました。原稿の執筆,製作資金などの不安材料を抱えての出発でしたが,沢山の同期生からの援助,協力がありました。そこには半世紀近い時が流れていても未だに衰えない仲間意識があることを知りました。そして平成21年5月の同期会の折,『今 われ思う』と題した記念文集を無事発行できましたが,友達,仲間の熱い想い,つながりの大切さを感じたものです。
大学卒業以来47年,古希を迎える歳になりました。振り返ってみますと,小・中学校は地域の学区内という狭い世界から,高校は全県から,そして大学は全国からというように,つき合う友達や仲間の輪が拡大し,いろいろな人達との交流が生まれました。もちろん社会人になってからも多くの新しい方々とのつき合いができ,沢山の影響も受けましたが,私の今の性格や生き方は高校,大学時代に出会った人達から受けた刺激,影響が特に大きいように思います。これからはこれらの友達を大切にし,老害にならない範囲で少し頑固爺で過ごしたいと思っています。
竹村 雅史(群馬県高崎市)
小惑星イトカワから微粒子を運んできた「はやぶさ」,宇宙ステーションへ貨物を運びこんだ「こうのとり」が話題となっております日本のロケット技術は,昭和30年から緯度・経度の交差する絡みで秋田市近郊の道川の海岸で,東京大学生産技術研究所の糸川教授が実験した30センチメートル程のペンシルロケットがその原点です。それがラムダー,ミューと機体も大型化し,発射場所もより広い鹿児島県の内之浦,種子島へと移り,ロケット本体も巨大化したH−?型へと発達していきましたが,私は昭和30年代に秋田市で高校時代を送っていたお陰で,母校で糸川教授にしていただいた講演を聴くことができました。
私はそのロケット技術の原点が生まれた秋田県の,北の端,十和田湖の側の鉱山町小坂で中学の半ばまで育ちました。当時,秋田県は高校の学区制が北・中央・南の3つに分かれていて,居住地の他の学区へは行けませんでしたので,私は秋田市の叔父の家に置いてもらい,目指す高校へ入りました。その頃の秋田県内の高校では,ラグビーなら「秋田工業」へ,サッカーなら「秋田商業」へというように,高校で強い運動部の色分けがありました。私が入学した「秋田」は剣道,柔道,野球の強豪校(バスケットの「能代工業」はもう少し後からのことです)で,私は柔道部に入りました。入部した時は3年生が1名,2年生は7名に対し,1年生は県の中学大会での優勝校,準優勝校,3位校のキャプテンをはじめ,県大会に出た自称腕自慢の30名も入部しました。96畳の道場が狭く感じるぐらいでしたが,それが1学期の中間テストが終わり,初めての合宿に入る頃は1年生が6名に減ってしまいました。そのため,道場がゆったり使えるようになり,機動隊や秋田鉄道管理局,秋田大学等との稽古も十分できるようになりましたが,合宿での食事作りは稽古の合間に1年生がやることになっていましたので大変でした。しかし,同期生の中でも特に部の合宿で3年間同じ釜の飯を食った仲間との絆は強く,今でも切れることはありません。
高校卒業後は群馬県の公立大学に進みましたが,部活仲間や下宿仲間,それに飲み仲間など,沢山の仲間ができました。特に,一地方の大学なのに北海道から沖縄までの全国各地から集まった学生が多数を占めている大学でしたので,幅広い地方の人達と仲間になることができたことは,私にとって幸運なことでした。
その一つの“飲み仲間”は未だに年に一度は何処かへ旅行をするという形で酒を酌み交わしています。その中の東京都出身の菊池,梨羽,愛媛県出身の近藤の3君は山岳部で,卒業後にヒマラヤ遠征(昭和58年ヌンプール峰への冬期登頂)をしています。その時の総隊長は山岳部の先輩で部のOB会長でもある斉藤さんで,菊池君がアタック隊長,梨羽君が記録担当のアタック隊員,近藤君が資金や物資集めの支援隊長として活躍しました。(これが縁で,菊池君はネパールに学校を作って農業の指導をするというボランティア活動を永年にわたって行っています。)ただ,その母校の山岳部は次第に部員が少なくなり,今では既に廃部となっています。名峰が近くに並ぶ群馬の大学なのに,寂しいかぎりです。
私は柔道部でしたが,“飲み仲間”の中にも地元群馬県出身の関根君,香川県出身の林君などの同じ柔道部だった仲間がいます。当然のことですが彼等にもまた卒業後は紆余曲折があり,それらについても“飲み仲間”の集まりでは話の花として咲きます。そしてその花たちは私に刺激と,少なからぬ影響を与えてくれました。
“飲み仲間”だけではありません。大学の同期会を5年毎に行っていますが,一昨年の5月,卒業45周年を記念して文集を発行しました。私はその編集委員の一人でしたが,発行の準備が2007年から始まりました。原稿の執筆,製作資金などの不安材料を抱えての出発でしたが,沢山の同期生からの援助,協力がありました。そこには半世紀近い時が流れていても未だに衰えない仲間意識があることを知りました。そして平成21年5月の同期会の折,『今 われ思う』と題した記念文集を無事発行できましたが,友達,仲間の熱い想い,つながりの大切さを感じたものです。
大学卒業以来47年,古希を迎える歳になりました。振り返ってみますと,小・中学校は地域の学区内という狭い世界から,高校は全県から,そして大学は全国からというように,つき合う友達や仲間の輪が拡大し,いろいろな人達との交流が生まれました。もちろん社会人になってからも多くの新しい方々とのつき合いができ,沢山の影響も受けましたが,私の今の性格や生き方は高校,大学時代に出会った人達から受けた刺激,影響が特に大きいように思います。これからはこれらの友達を大切にし,老害にならない範囲で少し頑固爺で過ごしたいと思っています。
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