有限会社 三九出版 - 戦前戦中世代・生き残りのくりごと


















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《自由広場》 

          戦前戦中世代・生き残りのくりごと 
                   ―思い出すままに― 

             鈴木 雅子(東京都国立市) 

 私の小学生の頃,つまり昭和十年前後だが,級友の一人が,うちのお父さんは参謀本部の大佐だと威張っていた。軍人とは縁のない家の子の私は別に気にもしなかったが,あとから考えると,あの頃は戦争へと突っ走りはじめていた時代だったのに,私は何も知らずただ遊びほうけていた,おくての子供だった。またある時人ごみの中で一人の兵隊さんが将校らしき人にひどく叱られているのを目撃。多分うっかり階級の上の人に気付かずに敬礼しなかったかららしいのだが,その兵隊さんが気の毒で,何も人前であんなに恥をかかせなくてもと,見ておられず,いやな気分だった。威張りくさった人は,とにかく私は嫌いなのだが,こんなこともあって私は余り軍人は好きでなく,男でなくて兵隊にならなくてよいのを,心中ひそかに有難く思った非国民なのであった。
 今思い返すとあの頃,私たち子供までもが,憲兵はこわいということを何となく感じていて,うっかりした事を言うと憲兵に引っぱられるから気をつけろ,何も見ない,知らない,言わないことだというような事を,心中深くしまいこんでいたと,改めてひどい世の中だったのだな,と思う。あの頃は「天皇」という言葉を聞いたら,「て」位の所で,もうとにかく即「直立不動」。天皇は絶対の神様(現人神(あらひとがみ))だと教えこまれていたから,私だけかもしれないが,子供の頃の私は,神様だとすると,天皇陛下はおしっこなんかもしないのかなと,口にはしなかったが心の中で本気で疑問に思っていたものだ。昭和九年に小学校に入学した私などが最初に教わった国史は,天の岩屋とか天孫降臨とか,金のとんびがとんできて等の神話の世界だったのである。
女学校に入学した次の年にアメリカとの戦争が始まった。ミッションスクールだったので,チャペルはあったが,当時公立の学校にはかならずあった奉安殿はなく,外人の先生もおられて上級生が英語でしゃべっているのを聞いて,私もあんなになれるのかなと羨ましかったのだが,開戦で英語は禁止となり(当時の軍部の視野の何と狭かったことか!)外人の先生は本国へ帰らされた。多分文部省の指示だったのだろうが,授業の始めにはまず宮城(きゅうじょう)(今は皇居という)の方を向いて遙拝するようになり,それまでなかった御真影と勅語を下賜された時は,生徒一同最敬礼してお出迎えした。こんな話,戦後生まれの方は信じられないかもしれないが,本当の話である。
 開戦後,学校は工場となり(「学校工場」という語が出来て,先生と工場の係の人が一緒に担任となった)はじめは授業半分,工場半分から工場仕事が主となって,私も小型蓄電器ミゼットというのを組みたて,それに旋盤で穴をあけたり,何の図面か知らないが定規(じょうぎ)と烏口(からすぐち)を使って青写真をトレースしたり,平和な時代なら女学校なんかで経験できないような体験をしたものである。(英語禁止と言いながらミゼットと名付けたりトレースと言ったり。学徒出陣した亡夫は海軍では英語を普通に使っていたと話していたが,陸軍の上の人達は何を考えていたのやら。)卒業式は疎開した人達もいたから全員揃う事なく,残った人達だけで簡単に「また逢う日までまた逢う日まで神の守り汝(な)が身をはなれざれ」と聖歌を歌って別れた。上の学校にはゆかず挺身隊で働くようにと文部省のお達しがあったらしいが,私は女子大に進学。六月にずれこんだ入学式までは挺身隊で働き,入学式の日も学校近くまで来た所で空襲警報が鳴り響き,あわてて近くの家に飛びこんだ。女子大も上級生は工場勤務で不在。新入生は半分講義を聞いて勉強し,半分は校庭を耕して畠作りだった。ここもミッションスクールだったが,高くて目立つ白いチャペルはとてもすてきだったのに黒くぬられてしまった。敗戦後,履く靴がなくて,手先の器用な弟が板を削って作ってくれた下駄を履いて通った女子大。戦後も食糧不足で,芝生で拡げた私のお弁当はただ茹でただけの輪切りのサツマ芋(これも当時のは味もないような床芋(とこいも)=種芋だった)。友人は何かの粉を丸めて蒸したもの。二人で半分ずつ分けあったが,今はもうその友人も疾うに亡くなって,私はあと何か月かで九十歳になる。戦中戦後のあのすさまじい時代を生き抜いてきた,今はもう少数派の一人である。これまで勉強し,調べたりしてきた事をまとめておこうと,先日まで机に向かっていたのだが,それも大体しあげて一息ついた所。友人の一人は憲法を守る会に今も足を運んでいるが,私は足を痛めているので申し訳ないが家にいて祈っている。今は残された命を大切に,できる範囲でやれることをやってゆこうと,ゆっくりゆっくり動いている。おかげ様で身の廻りの事は一人で出来るし,こんな生活も許されるだろうと感謝しながら,今日も一日,少しずつ自室の整理をした。 
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